米のあれこれ 4 <1993年米騒動>

1993年、日本で米騒動があった。
この記憶が残っている人はどれくらいいらっしゃることでしょう。


私は東南アジアのエスニック料理の写真を見るたびに、タイ米が緊急輸入された記憶が蘇ってくるのですが、あれは1993年でした。
ただ「1993年米騒動」とか「平成の米騒動」と命名されていたのを、先日の記事でリンクした食糧管理制度の説明を読んで初めて知りました。


Wikipediaの「1993年米騒動」では以下のように説明が書かれています。

 1993年米騒動とは、1993年(平成5年)の日本における記録的な冷夏による米不足現象のこと。平成の米騒動とも呼ばれ、大正時代に発生した米騒動にたとえられている。
 この記録的冷夏は、20世紀最大級ともいわれる1991年6月のフィリピン・ピナトウボ山(ピナツボ山)噴火が原因となり発生したと言われている。夏の気温が平均より2度から3度以上下回ったからである。


ピナツボ山の噴火は、当時東南アジアを行き来していた私には衝撃的なものでした。
大規模な噴火が、アエタという少数民族の文化や共同体を失わせることになるかもしれないこと、ふもとにあった二つの米軍基地の撤退を早めたことなど、フィリピンの政治経済に大きな変化をもたらした噴火でした。


そして翌年には、日本で米不足になるほどの気候への影響があったのでした。

この社会現象は、1993年(平成5年)の天候不順によって日本国内で栽培されていたコメの記録的な生育不良から生じた食糧市場の混乱と、これに関して世界の米市場にまで波及した影響をさす。

細かいことは覚えていないのですが、当時国内産の米が値上がりしただけでなく店頭から一時消えてしまいました。
しばらくすると国内産のお米は限定販売となり、しかも1kgぐらいのタイ米が抱き合わせで販売されるようになったと記憶しています。


わたしは東南アジアでの経験が役にたって、むしろタイ米を食べられることがうれしかったのですが、当時の職場の同僚はみな初めて食べるタイ米は受け入れられなかったようです。
抱き合わせで販売されていたタイ米を、皆、私にくれるようになりました。


「1993年米騒動」の「経緯」にはこう書かれています。

米価は、秋口から少しずつ上昇し始めた。細川内閣は9月、260万トンをタイ、中国、アメリカから緊急輸入を行うと発表した。しかし、当時は日本人がいわゆる和食の原点回帰や、食生活・食料品の安全などに強い関心を向け始めた時代でもあり、ポスト・ハーベスト農業など、輸入農作物に対する不信感も根強く、輸入米に対しての警戒心も消費者に見られた。


また、「タイ米と日本」ではこう書かれています。

当時タイ国内では米価格が高騰して、貧困者に餓死者も出るなど混乱が生じたにも関わらず、事態終息以降に大量に売れ残ったタイ米は、不法投棄されたり家畜等の飼料にされたりするなど、産業廃棄物(食品廃材)として処理され、タイ国内の混乱を知るものからはこれを悲しむ声も挙っている。


タイも決して国内で米が余っているわけではないことは、当時も確か報道されていたように思います。ところが、相手国のそういう状況よりも、「まずい米」「何(農薬)が使われているかわからない米」という見方をされてしまったことに、当時の私も心が痛みました。


タイの市場では普通に売られてその国の人たちが日常で食べているものなのに、と私が住んでいた国の市場の風景と重なり合いましたから。
そして市場の米のあの価格が少しでも値上がりすれば、その日その日を生きている多くの人たちは買うのをあきらめるだろうな、と。


あれから20年以上が過ぎて、エスニック料理やインディカ米が日本の社会に浸透したので、もし同じ状況が起きてもタイ米は喜ばれるかもしれません。


ただ、2011年の放射性物質と食品の安全についての社会の動揺をみると、なかなか平成の米騒動の失敗は受け継がれていないのかもしれないと思います。


米「騒動」。
それは政府の失策というより、食品の安全性や安定供給をどう受け止めるかという私たち側の気持ちの問題に大きく左右されるのだと思い返しています。





「米のあれこれ」まとめはこちら