20代の頃、こちらの記事に書いたように犬養道子氏の本に出会ってからキリスト教への関心が出ました。
1980年代半ばにインドシナ難民キャンプで働いていた時に初めて、難民キャンプ内にあるカトリックの教会の礼拝を経験しました。
教会堂にも礼拝にも、宗教や宗派を問わず誰もが自由に入ることができましたから、無宗教の私が礼拝に列席しても何も言われませんでした。
映画などでみたあの聖餐(せいさん)式が目の前で行われ、賛美歌を歌う雰囲気だけでも何かそこに「聖なること」があるようで引き込まれるようでした。
さすがに、信者ではなかったのであの薄いホスチアを口に入れてもらうことだけはしませんでしたが。
もしそれを受け入れたら、あの西洋的で厳かな雰囲気だけでもカトリックに入信しそうになることに、心のどこか深いところからブレーキがかかったのかもしれません。
初めて参加した礼拝では、聖書のどこを読んでいるとか式順とかを追っているだけでも緊張していたのですが、その緊張を解いてくれたことがありました。
途中で、隣りに座っている人と手をつなぎ合い、左右前後の座席の人たちへ「Peace be with you」と目を見ながら挨拶することでした。
それまで隣りにどこの誰が座っているかもわからなかったのに、ふとその存在が見え、急に親近感が沸いてくるのは不思議な感覚でした。
親子、上司・部下、先輩後輩、目上・目下といった上下関係とは違う関係がある社会が、世界にはあるのだと。
そして、人との垣根がふとなくなるこうした挨拶を週に1回行うということで、争いを少なくできるのかもしれない、これが「祈りと行動」というものなのかと漠然と感じたのでした。
<「平和」が挨拶に>
高校時代に教科書で「回教徒」と習った人たちを、初めて直接見たのはタイに旅行に行った時でした。
タイというと「仏教国」のイメージでしたが、南部にはイスラム教徒の多い地域があることと、世界各地からメッカ巡礼のためのトランジットで滞在する人たちがたくさんいることを知りました。
というか、「回教徒」が「イスラム教徒」であるとその時に知ったぐらい、イスラム教については全くの無知でした。
メッカ巡礼は男性が多いためか、白い服装をした男性の集団に、最初はちょっと「怖い」というイメージがありました。
それから数年もしないうちに、そのイスラム教徒の多い地域に住むようになりました。
ただ、東南アジアのその地域では、中近東のように白い服装をしている男性もいないし、匕ジャブを被る女性もたまに見かける程度でした。
そこに住むようになって、イスラム教の挨拶をまず教わりました。
「サライコム・アラーム」と、その返答としての「アライコム・サラーム」です。
検索すると、「アッサラーム・アレイクム」という発音で書かれているものがほとんどのようですが、その地域での発音は「サライコム・アラーム」でした。
そしてその意味はヘブライ語のシャローム(平和)と同じで、もともとはユダヤ教の習慣を取り入れたものと書かれています。
ユダヤ教の「シャローム」、キリスト教の「Peace be with you」そしてイスラム教の「サライコム・アラーム」のどれもが「平和」や「平安」を意味する言葉のようです。
ただ、キリスト教でもプロテスタントの礼拝では「Peace be with you」という挨拶をしたことがないので、もしかするとカトリックだけなのでしょうか。
そして「平和」がこめられた挨拶を日常的な挨拶で経験したのは、イスラム教の地域が初めてでした。
外国人の私が見ず知らずの人に挨拶しても、返事をくれます。
それだけで、私の存在が認められ、その地域に受け入れられたたという安心感のようなものを感じる言葉でした。