数カ所の総合病院で働いたのですが、そのうち2回、病院の引っ越しを経験しました。
1人で2回の引っ越しにあたるのは、確率としては高い方ではないかと思います。
ちょうど1990年代は、60年代とか70年代に建てられた病院の建て替えが多い時代だったのかもしれません。
どちらも30代の時で、病院の引っ越しというのは心身ともに大変だと記憶に残っています。
それでも当時の私は管理職でもない平のスタッフだったので、「疲れるなあ」ぐらいで済んだのですが。
あまり細かい記憶は残っていないのですが、通常の入院患者さんのケアをしながら少しずつ引っ越しのために荷造りをするのは、自宅の引っ越しの比にならないほど神経を使った記憶があります。
そして引っ越した直後からすぐに使えるように、大事な医薬品をどうするかというあたりも。
産婦人科病棟でも、時には婦人科の術後やターミナルの患者さん、あるいは妊娠・出産でもベッド上安静が必要な方がいらっしゃるので、ちょうど引っ越しの時期にはそういう担送(ベッドごとの移動が必要)の患者さんがいらっしゃらなかったので幸いでした。
そして、「引っ越しの時間帯に分娩になったらどうするか」
それが産婦人科病棟で一番懸念されたことですが、幸いにも分娩がなくて、無事に分娩室の備品を移動できたのでした。
他の内科や外科病棟では人工呼吸器を装着していた患者さんもいらっしゃったので、引っ越しは相当大変だったと思います。
そして無事に患者さんや医療機器・物品の引っ越しが完了したあとも、1〜2ヶ月ぐらいはどこに物があるのか覚えるだけでも大変で、日頃の動線の倍以上、病棟内を行ったり来たりしていました。
<南三陸病院の移転のニュース>
なぜ、病院引っ越しの記憶が突然思い出されたかというと、2週間ほど前に南三陸病院の引っ越しのニュースを知ったことがきっかけでした。
引っ越しの準備から、当日の雰囲気、そして新しい建物のにおいがする中での昂揚感や緊張感がふと蘇ってきました。
きっと移転先で、まだまだちょっとした混乱がある中で、日常の診療風景を取り戻されていることでしょう。
ニュースの中で、元は公立志津川病院であったことが伝えられていました。
検索すると、「大津波の証言」というサイトに「公立志津川病院の悲劇・惨劇」という河北新聞の記事をもとにしたものがありました。
死を覚悟した看護師が自分の身元が分かるようにペンで腕に名前を書いた。医師の1人は、普段は治療の支障になると言って外していた結婚指輪を財布から取り出し、自分の指にはめた。
私がその場にいたら、何を考え、どのように行動したことでしょうか。
病棟に勤務していると、「担送・護送・独歩」という救護区分でいつも無意識に災害時の対応や優先順位を意識しているのですが、患者さんの安全を考えつつ自分の死をも考えて行動することまでいざとなると人は思い至ることができるのかと、この記録を読んで胸が詰まる思いです。
あの東日本大震災直後の記憶や感情が戻ってくることを今までは無意識のうちに避けて来たところがあるのですが、これからは少しずつこういう事実を見つけてみようと思いました。
<2015年12月29日、追記>
コメント欄でsuzanさんより、雄勝病院について教えていただきました。ありがとうございます。
河北新報にその記事がありました。
「第一部あの日に何が・・・ (1)石巻市、雄勝病院・迫り来る海、まさか屋上まで」
「記憶についてのあれこれ」まとめはこちら。