食べるということ 10 <食べるために必要な時間>

日本ではなんであんなに気ぜわしい毎日なのだろうと、同じ時間でも違う過ごし方があることに驚いたのが20代の頃でした。
朝起きて出勤して、そして夕方になり帰宅して眠るまでの時間。
同じ一日のはずなのに。


それ以来、その理由はなんだろうと考えているのですが、たしかに過酷な通勤時間も理由のひとつかもしれません。
ただ、自転車で5分ぐらいの近い場所で働いていた時も、いつも時間に追われていたように感じます。
もしかしたら一番の理由は、「食べること」に費やす時間の差なのかもしれないと思っています。



「食べる」ということは、食べるものを準備し、食べ、そして片付けをする過程があります。
日本での生活にはその準備と片付けに時間をかけすぎているのかもしれないと。
もちろん、個人差や家庭での差もあると思いますが、日本の社会で当たり前のような感覚もあるのではないかと、思います。


<朝ご飯>


高校生まで過ごした実家では、毎日、母親が朝食を作ってくれていました。お弁当もあったので、ご飯とお味噌汁、そしてお弁当のおかずや前夜の残りなどが朝ご飯でした。
看護学からしばらくは寮生活があったのですが、平日はご飯とお味噌汁とおかず、そして休日はパンという朝食でした。


難民キャンプで働いた時には、カフェで軽くパンとコーヒーで済ませたりベトナムのフォーやサンドイッチを朝食にしていました。


その後、東南アジアで生活したときには、朝からパンを売って歩く人から買ったり、調理するとしてもサツマイモやキャッサバを茹でて、ヤカンで煮出したコーヒーを飲みながら食べるぐらいでした。


当時の日本では、外でお金を払って食事をするのは昼食か夕食だけだったので、朝から手軽に外で食べるところがあったり、パンを売りに来てくれる生活があることがとても魅力的でした。
朝食の支度や片付けをしなくてよいのですから。
その分、ゆっくりと食べることができました。


東南アジアで暮らすようになってから、朝、シャワーに入る生活に変わったのですが、それでも朝の時間はゆっくりと感じられたのでした。



70年代80年代ごろは、欧米や海外の日常生活の情報が広がり始めて、世界の朝食についての本などもありましたが、日本のように各家庭できっちと作るほうが少ないのではないかと印象に残りました。


<お昼ご飯>


朝からご飯を炊いておかずを作る、そして後かたづけをするというのは、結構な家事量だと思うのですが、私が高校を卒業するまで母がそれをしていたのは、お弁当があったことが一番の理由です。時には、私も作りましたが、特に夏場はクーラーもない中でいたまないように朝作る必要がありました。


今のように、コンビニや持ち帰り用の食事を売る店がなかったし、お弁当をつくったほうが経済的なこともありました。


そのうちに、また海外のお昼ご飯についての情報を見聞きして、こうしたお弁当という文化は世界の中でも珍しいことを知りました。


「途上国」と言われていた国々には、日本の金銭感覚なら100〜200円も出せば美味しいおかずとご飯を食べられるお店や屋台がたくさんありました。
ビニール袋におかずとご飯をそれぞれ入れて、気軽に持って帰って食べることもできて本当に便利でした。
ああ、なんて豊かな食生活なのだろうと、うらやましい限りでした。


そしてお昼ご飯のあとは、現地スタッフと一緒に30分ぐらい昼寝をしていました。
お昼休みは1時間ほどでしたが、日本のようなあわただしさがありませんでした。


さらに、午前と午後、適当な時間におやつの時間がありました。
職場に手作りのお菓子を売りにくる人がいるので、その間は業務もストップしていましたが、待つ人もおやつの時間でしたから誰も文句を言う人もいませんでした。



<夕ご飯>


日本なら夕飯が一番手が込んでいたり、ボリュームのあるおかずが並ぶと思います。


東南アジアでの生活で夕飯に何を食べていたのか、あまり思い出せません。
たぶん、1品ぐらいスープや野菜炒めのようなものを作っていたか、屋台で買って来たか、それかビールを飲みながら生演奏を聞いて軽く何かを食べていたか、だったと思います。


お昼ご飯に肉や魚などをしっかり食べていたし、おやつもあったので、夕食は自然と軽いものになったのでした。


仕事がえりに買物をして、帰宅したら調理、食べる、片付けるという過程がまるごとなくなったわけですから、時間に余裕があるわけです。


日本の生活のあわただしさは、一日に2回から3回、食事の準備から片付けをすることにあるのかもしれませんね。




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