散歩をする 148 天竜川と天竜峡

諏訪湖から流れ始める天竜川の姿がなんとも不思議でしたが、これが中流域の天浜線や、下流東海道新幹線の車窓から見た天竜川の始まりだと思うと感無量でした。

川幅いっぱいにゆったりと流れるこの川が、その後どんな変化をしていくのか想像がつかないまま飯田線に乗りました。

 

*伊那地区(辰野〜天竜峡)*

 

飯田線が大きく3つに分けられる中で、伊那地区はまだ天竜川に沿った河岸段丘が広がる地域でした。

天竜川に沿って車窓からの風景を楽しみにしていたのですが、川よりもかなり高い位置を走っているので、時々川面が見えるぐらいでした。

ただ、山側のいたるところから沢や川の勢いのある流れがあり、天竜川へと流れ込んでいるのが見えました。

 

緩やかな傾斜に沿って、数十センチ以上に伸びた緑の濃くなった稲が風に揺れる風景がはるか遠くまで広がっていました。

よく見ると、線路沿いの山の中にも勢いよく水が流れる水路がところどころにあります。

山肌を流れる水を集め、川へと流しているのでしょうか。

どんな治水と治山の歴史があったのでしょうか。

 

お昼頃に乗った列車は、夏休みの部活帰りなのか地元の学生さんたちでいっぱいでした。飯田駅までは、地元の人たちや登山客などで常に満員状態でした。

 

飯田駅を過ぎると、車内は数人ぐらいになりました。

残されたのは、飯田線天竜川に興味がある人の印象でした。

 

天竜峡

 

天竜峡といえば観光地というイメージだったのですが、平日の午後、それほど人が多くありませんでした。

駅前にある天竜川を一望できる公園に立つと、ここまでの水量が多いけれど比較的ゆったりと川幅もある流れから一変した風景になります。

川幅が急に狭くなり、両岸は岩に囲まれた流れでした。天竜川の治水開発に以下のように書かれています。

赤石山脈木曽山脈という日本の屋根に挟まれながら流れる天竜川水系は、その急峻な地形ゆえに古来より水害に悩まされた、古くは701年に天竜川最古の水害記録が残される。特に伊那谷の出口に当たる天竜峡付近は川幅が急激に狭隘(きょうあい)となることから、伊那谷は特に洪水の被害が顕著であった。天竜川最大の洪水は1715年の「未(ひつじ)満水」と呼ばれる洪水で、伊那谷はあたかも湖水のようなありさまだったと記録に残されている。 

 

釜口水門にも「諏訪湖を取り巻く流域面積は湖面積の40倍近くにもなり、大雨が降るとたちまち氾濫を招いていた」と書かれています。

大雨による増水が諏訪湖周辺に留まり、あるいは伊那谷に降った大雨が、この美しい天竜峡で止められてしまうことを想像するだけで恐ろしい風景です。

明治時代に入り、天竜川の治水は1885年(明治17年)に従来の囲堤を連結堤防に構築することから始まった。1927(昭和2年)には引堤や川幅の拡幅は行われたが水害の根本的解決には至らなかった、この後、諏訪湖の洪水調節を図り諏訪盆地を水害から守るため釜口水門が天竜川の流出部に1937年(昭和12年)に建設された。(「天竜川」)

さらに、旧水門処理能力の3倍に当たる現在の水門が建設されたのが1988年(昭和63年)ですから、わずか30年ほど前のこと。

 

私が子どもの頃からは水害の記憶が少ないのは、単に私がこの上流部の治水の長い歴史を知らなかったからでもあるのだと改めて思ったのでした。

 

 

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