水のあれこれ 126 「瀬田川改修の歴史」

瀬田川洗堰を渡って「水のめぐみ館アクア琵琶」に入ると、20mほど上流に、明治時代に建設されたれんが造りの南郷洗堰の遺構がありました。

 

瀬田川洗堰」(国土交通省近畿地方整備局琵琶湖河川事務所発行)という資料に、瀬田川の治水の歴史がまとめられていました。

奈良時代からの悲願、明治の大洪水で法制化 

 琵琶湖の唯一の出口である瀬田川は、大戸川が合流する地点の上流で大日山がせり出して川幅を狭めているうえ、下流(鹿跳渓谷)でも川幅が狭くなっている部分があり、水が流れにくい地形になっており、昔から大雨が降るたびに琵琶湖の水位が上昇し、水害に悩まされていました。

 やはり地図で細い水色の、この蛇行した複雑な流れは、水の調整を大変にする箇所だったようです。

 

 

奈良時代からの試み*

 

 琵琶湖周辺を水害から守るための取り組みは、奈良時代に僧行基瀬田川の川底をさらえて琵琶湖の水位を下げる構想を持ったのが始まりだといわれています。 また江戸時代には沿岸住民が自普請で瀬田川を浚渫しましたが、琵琶湖の洪水を解決するまでには至りませんでした。

 

館内の展示では、もう少しこの部分が詳しく説明されていました。

 

行基は「大日山(だいにちやま)を切り取ろうとした」ことが書かれています。

この資料館へは瀬田川右岸を通るバスを利用しましたが、ずっと瀬田川の河畔沿いに道路があります。ところが対岸は小高い山があり、道路は一旦、瀬田川を離れ大きく迂回しているのですが、ここに立つ山が大日山でした。

帰路はこの迂回している部分を歩いてみたのですが、7世紀から8世紀に、この山を削ろうと考えつくなんて驚きです。

 

そして江戸時代に入り、瀬田川の中にある小さな島のような場所を浚渫したことが展示されていました。

 

*浸水237日から淀川改良工事へ*

 

 淀川下流では、明治18年、22年、29年と相次ぐ洪水で大水害に見舞われ、琵琶湖沿岸でも明治17年、18年と連続して鳥居川水位が2m以上を記録し、明治22年の洪水では湖岸地域では田植えもできない状態でした。 

 

 展示では、明治29年(1896)の大洪水で琵琶湖周辺の浸水が237日間続いたとありました。

資料では以下のように書かれています。

 明治29年9月に発生した琵琶湖流域で発生した洪水は、記録によると、琵琶湖周辺にあるほとんどの地域が浸水し、その期間は200日以上の長期にわたったとされています。

 この大水害は、9月3日から12日の10日間に、1,008mm(彦根)という滋賀県の年間降雨量の役1,900mmの半分以上に匹敵する雨が降り、特に7日は1日で597mm(彦根)という大豪雨によるものです。このため、琵琶湖の水位が鳥居川観測所(唐橋付近)で+3.76mまで上昇し、周辺地域に大洪水をもたらしました。

 この大水害を後世に語り継ぐために洪水位を記録した石標や痕跡が今もなお各地に残されおり、これらを訪ねることによって、洪水の激しさや恐ろしさを知ることができます。

 

琵琶湖だけでなく全国の水害の被害もきっかけとなり、「明治29年に河川法が制定され、明治33年より上下流一貫したわが国初の河川計画に基づいた淀川改良工事が実施されました」と書かれています。

 

*南郷洗堰、瀬田川洗堰*

 

洗堰の設置

明治中期の洪水被害がきっかけ 

 明治33年から明治42年にかけて行われた淀川河川改良工事の一貫として、瀬田川の浚渫とともに重要な事業として洗堰の設置があります。瀬田川浚渫により流れがよくなると、今度は下流淀川が洪水を起こしやすくなってしまうため、上流と下流の相反する利害を解決するために設置されたのが洗堰です。その目的は、琵琶湖周辺の洪水防御、琵琶湖の水位維持、洗堰下流宇治川、淀川の洪水流量の低減および流水の正常な機能の維持並びに水道用水や工業用用水および農業用水の供給となっていました。

 淀川改良工事によって建設された洗堰は「南郷洗堰」と呼ばれ、明治38年に完成しました。昭和36年新洗堰の築造によりその役割を終え、瀬田川治水史の1ページを飾る貴重な史跡としてその一部が当時のまま残されています。

 

今までは湖とは「大きな水溜り」ぐらいの認識だったのですが、昨年の台風19号芦ノ湖の水位が上がって湖畔地域が浸水したことに驚きました。

琵琶湖の大きさを考えると、その水を制御するということの大変さに気が遠くなりながら展示を見て回りました。

 

資料には、平成25年(2013)に洗堰の全閉操作が行われたことが書かれています。

  近年においても、平成25年9月台風18号洪水において、琵琶湖水位は約100cm上昇し、水位は+0.77m(9月17日7時)に達しました。また、瀬田川洗堰下流宇治川で、天ヶ瀬ダムの洪水調節操作開始流量を上回る流入量であったことから、瀬田川洗堰の全閉操作を41年ぶりに実施しました。

 宇治川では、堤防漏水も相次ぎ、危険な状態となったほか、琵琶湖水位上昇により琵琶湖沿岸各地で浸水被害が発生しました。

 

 

関ヶ原を抜けると目の前に鏡のように広がる琵琶湖、そして京都が近づくと渡る鉄橋から見える川に、こんな水との闘いがあったとは全く知らずにきてしまいました。

思い切って訪ねてみて本当に良かった。

 

帰りは大日山の反対側を歩き、瀬田川の遊歩道を歩いて途中でバスに乗って石山駅に戻りました。

途中、名神高速道路や東海道新幹線の高架の下を通過しましたが、こうした場所に建っているその技術に、あらためて圧倒されました。

 

 

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