記録のあれこれ 42 平和街道

夏のこの時期はあの戦争についての話題が増えるので、これも平和への祈りをこめた街道名かと思いますね。

 

北上川の堤防から駅へ戻る途中に、「平和街道」の説明が掲げられていました。

少し長いのですが、全文、記録しておこうと思います。

平和街道は、この地を起点として秋田県横手市と結ぶ道路として、明治十五年(1882年)に開通しました。

◎名前の由来ー和賀郡黒沢尻と平鹿郡横手の「平」と「和」から平和街道と名付けられました。

◎路線ー明治政府の土木局長とオランダから招いた技師ファン・ドルンによって決められ、費用を安くするため、トンネルを掘らず橋もできるだけ架けないという方針でした。

川岸のこの地点から若宮町、旧北上病院北側を通り北鬼柳まで真っ直ぐな道路で、それが和賀川北岸沿いに造られ、和賀仙人付近では山すそを切り開き、そのまま川尻まで続いていました。そして、県境の巣郷までが岩手県分で、岩手県分の距離は約45km、秋田県分の距離は約20kmでした。

◎新設の理由ーここから秋田県に行く昔の道路は、仙人峠や白木峠などの難所があり、馬や馬車などは通れませんでした。そんな中、江戸時代の秋田藩御用商人山中新十郎が、江戸や上方(関西)から商品を仕入れるのに、陸路山形経由で運ぶより、北上川舟運で黒沢尻まで運び、横手まで陸送して運ぶ方が、経費が安く時間的に早いと提言していました。

初年の頃明治政府は東北地方の開発を必要とし、この地に眠る鉱山資源の開発のためにも道路整備が必要とされました。

明治十三年(1880年)には岩手県秋田県が共同で、国の費用による平和街道の新設を申請しています。

明治十三年秋田県側と岩手県側の双方から、工事が始まりました。国が出した費用は、当時のお金で九万三千三百四十九円でした。費用が足らず、用地の無償提供や労働奉仕が相当あったとされます。

完成は明治十五年(1882年)で、県境の巣郷で開通式が行われました。

◎道路の効用ーこの道路の完成により、人や荷を積んだ馬、馬車などの交通が盛んになりました。明治二十九年(1896年)の横手市の旅館の宿泊客の七割は平和街道の利用者だったといわれます。

さらに、明治二十三年(1890年)東北本線黒沢尻駅の開業により、平和街道の交通は益々盛んになりました。明治三十年代には、和賀郡西部の諸鉱山の開発が大規模になり、その物資輸送のためにこの道路が大いに利用されました。黒沢尻の町場はそれにより大いに発展してきました。

◎移り変わりー明治三十八年(千九百五年)奥羽本線横手駅開業により、秋田県側の輸送は鉄道に変わりました。明治四十年(1907年)には平和街道に沿って、和賀郵便鉄道が黒沢尻駅から仙人駅まで開通し、物資の輸送が盛んに行われました。そして、大正十三年(1924年)には、横黒線(北上線)が横手まで開通して、人々の交通や物資の輸送が鉄道を利用するようになりました。

昭和四十年(1965年)平和街道は、一部路線改良され現在の国道107号として生まれ変わりました。そして、平成九年(1995年)東北自動車道秋田線が秋田県と結ぶ大動脈として完成しました。

俳人正岡子規は、明治二十六年(1893年)秋田から湯本温泉に来て泊まり、この平和街道を通って黒沢尻を訪れています。

 

平成二十六年一月  黒沢尻東地区自治協議会

 

Wikipedia平和街道の「概要」によれば、最初の頃は「ひらわかいどう」と読んでいたようです。

 

1882年(明治15年)に開通し、その12年後の1894年(明治27年)には日清戦争、さらに1904年(明治37年)には日露戦争と日本は戦争の時代に入ります。

「ひらわかいどう」と命名した当時、もしかしたらあの人類という日本語と概念ができ始めた頃のように、「へいわ」という読み方は馴染みがなかったのではないかと思いついたのですが、事実は如何に。

 

「平和(へいわ)」という言葉はいつ頃から日本で使われるようになった言葉なのでしょうか。

最近、通りすがりに見つけるこうした歴史の記録に、ふと立ち止まって読みふけることが増えました。

 

 

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