散歩をする 400 麻生中大池から唐間池・堂の池の田んぼを歩く

再び行基さんがつくった水路沿いに歩いて水間駅に戻って列車に乗り、途中の「清児(せちご)」駅で下車しました。

 

その駅の説明板に、また行基さんのエピソードが書かれていました。

稚児塚(ちごづか)

 奈良時代、僧行気が一羽の白鳥に導かれ現在の貝塚市鳥羽付近まで来た所で、白鳥は羽を落として飛び去ってしまいました。そのため行基は道に迷ったが、この塚のあたりで一人の童子が現れ水間の地まで案内して姿を消した。この童子が実は十六童子の化身であったため、以来この地に塚を築き祭祀した。

 この伝統が清児の地名の起こりと伝えられている。水間街道沿いに伝えられる行基水間寺建立にまつわる伝説の一つである。

 

水間駅に向かうとき車窓から古い家並みが見えたのですが、その理由もわかりました。

清児の家並(水間街道)

 水間街道は、紀州街道から分かれて貝塚市をほぼ東西に縦断する主要道路であった。岸和田城下と貝塚寺内からの2つのルートがあり、熊野街道で合流する。熊野街道を横切し石才をすぎると道幅が狭くなり、街道沿いには古い街並みが点在している。中でも清児の家並は、1904(明治37)年街道が拡幅された後も比較的古い景観が残されている。現在、水間への交通は水間鉄道やバスが通じているが、水間街道には今なお多くの道標や町石が残され、かつての頻繁な往来の様子を偲ばせる。

歩くだけで歴史に触れることができる、まるで街そのものが郷土資料館のようです。

 

無人改札を出ると、目の前は田んぼの脇の水路が暗渠になった道で、その先に古い日本家屋が続いています。

半世紀ほど前の倉敷の祖父母の家のあたりを歩いているような、なんとも懐かしい思いで路地を抜けると交通量の多い府道40号線に出ました。新水間街道のようです。

交差点の反対側には水田地帯が見え、その向こうに低い丘陵が見えました。

ここからJR東貝塚駅まで、大きな溜池をつなぐように歩く予定です。

 

*溜池と溜池の間の水田地帯を歩く*

 

交差点を渡り細い道沿いに入りましたがここも交通量が多く、前から後ろから来る車を避けながら白線だけの歩道を歩くと最初の溜池がありました。柵に囲まれていて比較的小さな溜池です。

 

貝塚市のホームページに「貝塚市内の主なため池」がありますが、それによると貝塚市内には約140個の溜池があるそうです。

「ため池ハザードマップ」もあり、「溜池決壊時の被害規模によりA級、B級、C級と基準分け」されているということでした。

 

目指していた次の麻生中大池(あそうなかおおいけ)の堤防とその周囲に水田地帯が広がっているのが見えます。交差点から300mほど車の往来を避けながらの散歩から、ようやく車の少ない道へと入ることが出来ました。

稲刈りもとっくに済んで茶色い田んぼですが、そのそばを歩くだけで楽しいものです。

 

 

途中、麻生中大池からの水路があり、晩秋の11月でしたがけっこう水が流れていました。少し小高い場所に造られている右手の堤防を眺めながら水田地帯を歩くと、左側にも水田地帯が見えました。こちらは緩やかに窪んだ場所に見えます。

あの米沢の田んぼを思い出すような地形でした。

 

地図や航空写真では一面平らな水田地帯のように見える場所でも、実際に歩くと微妙な高低差がありますね。

近くに「海抜約31.8m」の表示がありました。

 

麻生中大池の背後にある丘陵の西端になり、集落の中の上り坂を抜けるとその先に大きな溜池が見えました。

地図ではハートに近い形で、その真ん中を道が通っています。そこを歩いてみたいと思ったのでした。

左側が唐間池、右側が堂の池でしょうか。どちらも底に水が少し残っているだけでした。

その西側を通る府道30号線よりは数メートルぐらい高い場所に造られている溜池のように見えました。

 

ここからは幹線道路沿いの街なので、どこにこの水が流れていくのでしょうか。

 

*田んぼを歩くとお腹がすくということで*

 

ちょっと気になりながらも、ここで空腹と疲労の限界になりました。

ふととり天うどんが目に入り、ふらりと入ってしまいました。先客もわずかです。

 

イメージしていた駅そばのようなファーストフードではなく、出てくるまでに40分ほど待つ本格的なお店でした。入った時には3~4人ぐらいだったのが、次々と並び始めて皆静かに待っています。

これは早く食べて席を空けなければと焦ったのですが、コシの強いうどんで時間がかかりました。揚げたてのとり天も美味しく、元気が出ました。

食べる前はもう三日目の計画はやめて早めに帰ろうかと思っていたのですが、もうひとつ溜池を訪ねることにしました。

 

 

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