明治初期に計画された児島湾干拓事業に利根運河を手がけたムルデルが関わっていたことを、今回児島湾干拓資料室を訪ねて知りました。
ムルデルは1879年(明治12年)に来日し、あのヨハネス・デ・レーケと同様、あちこちの土木事業でその名を目にします。
ムルデルが児島湾干拓の計画も立てたのかと思ったのですが、よくよく 「明治時代から昭和にかけての干拓」を読むと、読み飛ばしそうな以下の文章があります。
明治時代に入ると、これまでお殿様に使えていた武士の人たちが仕事を失ったため、こうした人たちが農業で生活できるように児島湾の干拓が行われました。
東京新田を思い出しました。
誰が計画を立てたのでしょうか。
*「農業土木を支えてきた人々」より*
もう少しこの箇所を知りたくて検索したら、「農業土木を支えてきた人々 児島湾干拓ー藤田伝三郎の業績ー」という1985年に農業農村工学会の雑誌に掲載されていたものがありました。
「その発端」に以下のような箇所があります。
児島湾干拓は、明治維新以降、食録から離れた旧岡山藩士族たちの画策がその発端である。
明治10~11年を中心に、士族たちの団体で児島湾の干拓許可を願い出たものには数団体に登るが、そのうちでも旧藩の家老が中心となって3,000haの干拓を計画した伊木社、士族1,000余人を糾合して4,000haを計画した微力社が最有力で、両者が競願の形であった。彼らの計画は壮大ではあったが、技術、資金についての実力はなく、ただ計画面積や団体勢力の大きさを吹聴するだけとみられた。
ときの岡山県令(知事)高橋五六は、これらの士族団体の実力を見抜いていたか、区々の計画の不利を悟ったか、それはともかく懇願は全て黙殺して、明治13年5月に県独自の雄大な計画を立て、その構想を政府に上申した。
それは、県勧業課員の生本伝九郎(岡山県山陽町の人)によるものだが、その概要は次のとおりであった。
「児島湾内の旭川河口付近から対岸の鮑浦までの狭隘部に堤防を築き、進潮を止めれば、湾内の一万余町歩は一時開墾地となり、およそ米15万石の生産が可能で、士族1万人に恒産を授け得る。
さらにこの堤防を利用して、児島半島東領の小串に通じる道路を開き、小串港を岡山の外港とする」
この構想は、茫漠たる児島湾を一条の堤防で締切り、湾内を一気に干拓するという、まさに荒っぽい夢の干拓計画であった。なお、それから100余年を経た今日では、児島湾淡水化の堤防が完成し、堤防は重要な道路に利用されていて、当時の夢は実現した形になっている。(強調は引用者による)
それに対して、政府がムルデルを派遣して調査を行ったことが書かれています。
(引用文中では「ムルドル」)
ムルドルの調査報告書は、6ヶ月にわたる正確な地勢、水位、河川氾濫、潮流などの測量を基にして立てられた干拓計画書であったが、その概要は次の通りである。
⚪︎湾内面積6,900町歩のうち低水面(干潮時の平均水位)より2尺(60cm)以上の干潟となる部分が1,800町歩、1尺以上が1,000町歩あり、干拓後の土地の低落(沈下)が1尺とみて、さしあたり1,800町歩の干拓が可能で、その他は時期を待つ劇である。
⚪︎干拓可能の部分は、倉敷川、笹ヶ瀬川、旭川の吐口を避けて1~4区に分けて築堤する。
(中略)
⚪︎将来干拓堤防を築く予定線上に拘泥堤(土砂、粗朶、石の投入による沈床)を築いておけば、土砂が堆積して有利である。
⚪︎旭川河口左岸の三橋から、湾内の高島までの堤防を築いて道路とし、高島に港の桟橋を設ける。
このように、ムルドルの計画は、科学的な調査に基づき、付近の既墾地や航路などへの障害を避けた計画であって、後に地元の反対が言い立てた障害論を論破するに足るものであったし、事実この計画に従って実施計画が作成されたのである。
江戸時代以前からの干拓の歴史があるとはいえ、生本伝三郎氏が一世紀先を見越した計画を立てたことも驚きですが、さらにムルデルの「科学的な調査」の結果を受け入れ、生本伝三郎氏はその後資金集めに奔走したそうです。
一世紀半前、食録を離れた士族をどうするかという、大混乱の時代の雰囲気はどんなものだったのでしょうか。
そして、当時は「科学的」という言葉があったのかそれとも別の言葉だったのかわからないのですが、本質的なことを見抜ける人たちがいたことで、現代につながっているのですね。
なんだか今の世の中と重なり合いますね。
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