記録のあれこれ 44 「砂丘に生きる」

内灘町歴史民俗資料館「風と砂の館」は、一方は河北潟を、反対側は日本海を見渡すことができる場所にありました。

金沢医科大学のそばにある放水路にまたがる大きな橋を渡ると、そこには広大な公園と天然湯の施設が整備されていて、その一角に資料館があります。

 

開館とともに入ったのは私一人だけでしたから、学芸員さんと思われる方が、展示内容について説明してくださいました。

 

河北潟日本海の間にある緑豊かなその落ち着いた街は、半世紀前までは風が強い砂丘で、特に日本海側に面している海岸線は人が住めないような地域だったそうです。

河北潟に面した内側も、わずかに漁村が点在するだけで、風と砂との闘いだったようです。

 

スタッフの方が教えてくださった「ビジュアル内灘町史  砂丘に生きる町」を購入しました。

旅の初めから重い荷物が増えましたが、そんな苦労が吹き飛ぶほどの内容でした。

 

*半世紀前は砂丘だった*

 

「飛砂とのたたかい」(p.17~)に半世紀前までの状況が書かれていました。

集団移住をせまられた集落も

日本海に面した内灘砂丘は、一度北西の季節風が吹きすさぶと、猛烈な勢いで砂が風に舞い、家々が砂に飲み込まれ、集落が砂に閉ざされる被害が繰り返された場所です。明治、大正のころまで、内灘の集落は河北潟べりに点在し、いま市街地が広がりを見せる高台は木も草も生えない砂の大地でした。風は砂丘に美しい風紋を描く一方で、丘を飛ぶ砂は各集落の背後に吹き寄せ、数軒の民家が砂に埋もれた宮坂では、昭和三十年代、すでに三軒を残すだけとなり、それ以前には集落ごと大根布に集団移転を余儀なくされた記録も残っています。

 

子どもの頃に、中近東の砂漠地帯の怖さを何かで読んだことがありましたが、日本にもあったとは。しかも、私が生まれた頃です。

 

江戸時代から砂丘の植林事業が行われていたのですが、広範囲でありその負担は大きかったそうです。

それ以上に問題だったのは砂防工事が内灘村の手に余ることでした。内灘村は村の面積に対して海岸線が長く、そこに横たわる砂丘は全国有数の規模であり、村の総面積の大半を占めていたのです。広大な砂丘の砂防工事を一村の財政で負担するなど不可能だったのであり、明治二十六年には石川県からも補助を受け、当時としては巨額の千百二十円の予算で大規模な砂防工事を施したものの、県費補助はこの年だけしか受けられませんでした。

その後も郡のわずかな補助を頼りに地元主体の砂防工事が続けられはしたものの、漁業を主とする内灘村では不漁年になると砂防費の負担が困難であり、砂とのたたかいに疲れ切った村民の間には無力感が広がるばかりでした。

 

この土地を変えたのが1914年(大正3)に植えられたアカシアで、植林が進んだ集落では「民家を覆うように竹林が生い茂り、大きな成果を上げた」ようです。

戦後、1957年(昭和32)から1966年(昭和42)までの石川県直営の植林事業によって、砂丘が森に変わったことが書かれています。

内灘町の地道な植林が功を奏して、砂丘には幅数百メートルにもおよぶ立派なアカシアの林帯が南北に走り、念願の砂防に成功したころから、内灘長では雑草も生え、硬くて引き締まった砂地で住宅地の開発が本格化しました。

 

丘の上にある緑豊かな公園は、この植林によるものだったのです。

 

資料館に展示されているセピア色の寒村の写真に、子どもたちが写っています。

よくよく年代を見ると、私と数歳ぐらいしか変わらない世代です。

今は日本中、美しい田園や海岸線に落ち着いた街の風景が広がっています。

でも半世紀前までは、まだまだ経済的に厳しい状況の地域があちこちにあったのだと。

 

金沢市のすぐそばなので、早い時代から干拓や街の開発が行われて経済的にも豊かな場所だったのだろうというイメージは、まったく違うものでした。

 

 地図で偶然見つけた干拓地らしき場所から、知らなかった世界が広がりました。

 

 

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