記録のあれこれ 157 「九頭竜川の治水の歴史」

九頭竜川資料館の展示に「九頭竜川の治水の歴史」がありました。

 

九頭竜川の治水の歴史

 

九頭竜川は昔からくずれ川と呼ばれたように、洪水のたびに田畑や住宅に被害をあたえてきました。

九頭竜川の水があふれないようにするために、人々は堤防をつくったり、川の流れを変えるなど様々な工夫をしてきました。

 

「暴れ川」はこれまでもあちこちで目にしてきましたが、「くずれ川」は初めてです。

水がぶつかり合うようすを昔の人には「9頭の竜が荒れ狂うように見えた」から九頭竜川になったのだろうかと想像していたのですが、「くずれ」からその名がきたのでしょうか。

 

4世紀末 継体天皇の治水

継体天皇が越前に住んでいた頃、現在の福井平野は、九頭竜川日野川足羽川が流れ込む大きな湖でした。

洪水のたびに水害にあっていたので、当時の朝廷は、湖の水を海へ流れさせるため三国の河口を広くするよう命じました。そして、そこに大きな田園をつくり、川を舟が通れるようにした李、水を田園に取り入れるための工事をしたと伝えられています。

 

江戸時代の治水 1602

江戸時代までの九頭竜川の堤防は、古くからの技術でつくられたかすみ堤や輪中堤が主流でした。今から約400年前、結城秀康が北ノ庄に来たときに、国家老の本多富正(元覚)に城下を水害から守るよう命じ、九頭竜川左岸の松岡から北野にかけて「元覚堤」と呼ばれる連続堤防をつくりました。また、本多富正は自分の城を水害から守るために、日野川本流の武生(たけお)市南に「昼夜(ちゅうや)堤」をつくったと伝えられています。

 

外国人技師、エッセルとデレーケ  1878

オランダから明治政府が招いたエッセルは、福井市内の九頭竜川足羽川などに、河岸(かがん)や堤防を守る護岸や、水の勢いを弱める水制を設計し、工事を指導しました。また、九頭竜川の河口に土砂がたまり、船が通れなくなったため、三国(みくに)港に砂が入ることを防ぐ突堤をつくる計画をしました。その後、ヨハネス・デレーケが指導を引きつぎ、たびたび三国を訪れました。

 

春江(はるえ)堤防  1898

九頭竜川右岸下流は、昔から洪水のたびに水害にあっていました。そのため、右岸下流にある村は、明治4年からたびたび堤防をつくるための工事を国や県にお願いしていました。明治30年10月に九頭竜川改修の応急手当工事として、工事費の55%と用地を買うための費用を、関係する村が出すことにして、ようやく許可されました。翌31年に工事が始まり、41年に約4.8キロの春江堤防が完成しました。

 

明治時代の九頭竜川改修完成   1910

九頭竜川改修の声は、明治28年、29年と続けて大洪水の被害にあったことで高まりました。明治33年から11年をかけて改修工事が行われ、引き続いて明治43年からは日野川の改修が始まり、大正13年に完了しました。改修工事の実現のために、多くの人々が苦労し力をつくしましたが、中でも衆議院議長となった杉田定一(ていいち)の功績が大きく、西藤島に治水謝恩碑が建てられています。

 

福井地震  1948

1948年6月28日に、福井平野の中部から東部を震源域として地震がおこり、とても大きな被害をもたらしました。この地震によって、震度の基準が見直されるほどでした。九頭竜川の堤防も、大きな被害を受けました。修復作業のさなか、7月23日からの激しい雨によって洪水がおこり、さらに大きな被害につながりました。治水事業の大切さがあらためて確認されました。

 

足羽川(あすわがわ)の放水路工事    1963

江戸時代から、九頭竜川の洪水を防ぐために、足羽川に水路をつくる計画が考えられていました。明治33年の改修工事の時にようやく実行され、洪水時に使う放水路がつくられました。その後、昭和4年から3年間と、昭和26年から始まった改修工事で、川はばを拡げたりして、新しい足羽川がつくられ、昭和38年に旧足羽川はうめ立てられました。曲がりくねった河道は修正され、放水路が完成しました。

 

五領ケ島(ごりょうがしま)地区の河道修正   1968

九頭竜川は、鳴鹿(なるが)付近で本流と裏川という2つの大きな流れに分かれていました。その中州には、堤防に囲まれた五領ケ島の集落があり、洪水のたびに大きな被害にあっていました。昭和34年35年と続いた洪水で、大きな被害を受けたことから、裏川をしめきることが決定されました。九頭竜川ダムの完成を待って昭和43年にようやくしめきられ、現在の姿となりました。

 

 

地形や河道を変えさせながらの長い洪水との闘いの歴史には、そこに住む人の大きな葛藤もその行間にはあることでしょう。

1990年代半ばに初めて九頭竜川の名前を知った時から30年、ようやくその川の歴史を知ることができました。

30年来のやり残した宿題を少しだけ片付けることができたとともに、もっと知りたいことが見えてきました。

 

それにしても4世紀末にはまだ湖のような場所で、河口を広げそこに田園をつくる発想があったとは。

「昔の人の土木技術」を侮っていました。

 

 

 

 

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