米のあれこれ 39 福島潟の干拓

1960年代から70年代、私が子どもの頃にはすでに新潟県といえば「米どころ」でした。

 

1990年代半ばに信濃川の水を制御するシステムと広い越後平野に広がる水田地帯を初めて訪ねて圧倒されました。

ただあの頃は、ずっとずっと大昔からこういう風景が続いていて、現代に入ってさらに大型公共事業と談合で発展したというイメージを勝手に重ねていました。

当時の稚拙な思い込みの正義心に、穴があったら入りたい気持ちです。

 

信濃川阿賀野川流域を少しずつ訪ねるようになって、「大昔からの水田風景」ではないことが理解できました。

越後平野も広いので、それぞれの地域がいつ頃からどのように米どころになっていったのか。

川や潟を訪ねると、少しずつその歴史を知る機会になります。

 

 

 

*「福島潟干拓のあゆみ」より*

 

新潟県のホームページに、「福島潟のあゆみ」があります。

 正保越後国絵図(正保4年(1647)によれば、福島潟は横3,400m、長さ4,900mと記録され、県内では特に大きな湖沼でした。当時、この新発田地域には、ほかに塩津潟(紫雲寺潟)や島見前潟があり、川の遊水池として水害、水利調整池としての役割を担っていました。

 湖沼が多かった新発田藩では、自作地や小作人として働く場も少なく、藩の収入を確保するため、湖沼の排水改良を盛んに行いました。

 しかし、福島潟では、ほかの2つの潟に比べ水深が深く、当時の土木技術では対応できませんでしたが、福島潟の周辺の農民は、どんな苦労をしても田を広げ、1本でも多くの稲を植えたいと願っていました。

 享保15年(1730)、新発田藩は幕府の許可を得て、信濃川と合流していた阿賀野川の上水を日本海に直接流すため、延べ11万5千人も使い、松ヶ崎分水路工事を行いました。その翌年の雪解け水で川幅が広がり、その分水路が阿賀野川の本流となり、福島潟周辺の水位は2mも下がり、3,800ヘクタールの土地ができ、今の葛塚、太田、木崎、鳥居、早通の集落が生まれました。

 

 宝暦5年(1755)には、柏崎の山本丈右衛門が幕府から許可を得て、福島潟の干拓工事を行いました。丈右衛門は、海に流れ込む佐々木の古太田川の水を新発田に流すために、太田川を開削したり、新井郷川を直したりしました。潟の周り17の集落の人々が仕事を割り当てられ、丈右衛門に協力し、15年もかかってようやく189ヘクタールを干拓しました。

 

 寛政2年(1790)には、水原大官所が市島徳次郎をはじめとする水原の13人に福島潟の干拓をさせることにしました。その方法は、土を盛り上げて囲土手を築き、囲いの中にマコモを植えて、地面を固め、上流から土を流して沼地を埋めたり、新井郷川の各目所に川を掘って水はけをよくしたりして干拓を進めました。

 文政7年(1824)、幕府から13人衆の干拓を引き継ぐように命ぜられた新発田藩は、川の上流から大がかりな土砂を流し始め、また、山倉新道、新塚新道などの土手を築いて福島潟を仕切り、干拓を行いました。

 このようにして、13人衆や新発田藩干拓された459ヘクタールの土地は、近くの村々に売り渡されたほか、まだ干拓されていない水面までも売られました。

 嘉永5年(1852)には、新発田藩の庄屋であった斎藤家(七郎次永治)が新発田新田を藩から買取り、「新囲」の干拓を始めました。斎藤家は、明治14年には福島潟新田の約320ヘクタールのうち190ヘクタールを所有していましたが、明治19年には、新潟の鍛工場、沼垂の精米所、赤谷・間瀬の鉱山、製塩、蒸気船三吉丸の経営に取り組んでいた弦巻家が福島潟と新発田新田の約160ヘクタールを所有するようになりました。弦巻家は、「新々囲」と「梅雨湖」の干拓を始めましたが、明治29年には、水原の豪商佐藤家に買い取られ、干拓が引き継がれました。

 その後、福島潟は、明治44年に"千町歩地主"と言われる市島家のものとなり、「山倉囲:明治45年」や「市島囲:昭和12年干拓を行い昭和31年まで潟を所有していました。

 

 

JR月岡駅から数百メートルのところにある市島邸とつながりました。

 

 

「どんな苦労をしても水田を広げ、1本でも多くの稲を植えたい」

福島潟周辺の水田地帯は、数世紀かけてその願いが実現している風景だったのでした。

 

 

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