行間を読む 208 金原明善とヨハネス・デ・レーケと木曽三川

金原明善で検索すると、植林についての記事がありました。

 

治山治水の思想のもと、植林作業を積極的に展開

 幼少の頃より強い意志と学業に秀でた金原明善の幼名は弥一郎、彼が生まれた安間村一帯には「暴れ川」と呼ばれた天竜川が流れており、嘉永3年(1850)から明治元年にいたる19年間にたびたび氾濫して大きな被害をもたらしました。この洪水の恐ろしさを身をもって体験した明善は、明治元年(1868)、36歳の折り、長年の計画を実行すべく、私財5万6000円を投げうち、新しい明治政府の許可を得、天竜川に約7キロの堤防工事を行いました。明治7年(1874)、オランダ人技師と天竜川上流の森林調査を行った明善は、荒れ果てた山々を見て、川の氾濫を治めるためには、森林の保全にあることを実感しました。彼が天竜川の植林作業のために官有林に寄付した苗木は、スギ250万本、ヒノキ50万本、まさに全財産を投じての治山治水活動でした。この植林作業は天竜川上流はもちろんのこと、伊豆・天城山、富士山の麓、岐阜県の森林に至るまで、広範囲に及びました。

 明善の偉業は、同じ洪水で苦しむ他地域の人々にとっても大きな支えとなりました。

 大垣輪中(大垣市)で幼少の頃から、洪水の恐ろしさを体験した金森吉治郎は、彼の影響を受け治水事業に生涯を捧げるようになりました。明治24(1889)年の濃尾大震災の際には、明善と吉治郎が共に梶尾谷の山腹崩壊の実情を撮影して天覧に供し、その結果生まれた森林法が実施され、岐阜県下にも5万2000ヘクタールの植林が行われました。

 治水に全生涯を捧げた金原明善は92歳で天寿をまっとうしますが、植林された木はそのまま生長を続け、その一部は記念林として、また学術参考林として、現在も瑞々しい緑に包まれています。

 

天竜川だけでなく大垣輪中の話が出てきたので、もう一度タイトルを読み直すと、「木曽三川治水偉人伝」(国土交通省中部地方整備局 木曽川下流事務所)でした。

 

 

ヨハネス・デ・レーケとの森林調査*

 

冒頭の資料の文中の「オランダ人技師」は、ヨハネス・デ・レーケだとすぐにわかりました。

木曽三川といえばヨハネス・デ・レーケですが、金原明善記念館でも紹介されていたのでした。

ここでヨハネス・デ・レーケに出会うとはと思いながら、その資料を写真に収めました。

 

★オランダ人、土木技師、勲二等瑞宝章

★「砂防の父」

 お雇い技師、砂防・治山・工事の体系化

★1872年、海外の学問・技術の国内導入制度にて、内務省土木局にG.A.エッセルと来日

エッセルは設計、デ・レーケは施工・監理

★淀川・三国港改修、砂防・治山工事体系化

 全国の港湾建設計画の立案

木曽川下流三川分流計画に10年間心血を注ぐ

★30年以上滞在

 日本中の現場の技術指導・助言、1903年離日

 

 

「明善関係」・・

★治河協力社来社(明治16年12月)2週間滞在

★調査、視察(二俣方面、福田、新居の両港)

 明善・小林八郎・飯塚義光(内務技官)同行

★小林八郎は治下協力社社員、3年間フランス

 (明善支援で河川技術習得・各国河川視察)

 

こんなつながりがあって天竜川上流や木曽三川上流の植林が進められたのですね。

「世のため、人のため」が国境をも超えた、これもまた驚異的に変化する時代だったことでしょう。

 

ただし、江戸時代がことさら遅れていた時代だったわけではなく、はるか昔から公共事業の概念があったことは見落としてはいけないのですけれどね。

 

 

*おまけ*

 

それにしても明治元年の5万6000円は、現在の2億1280万円相当のようです。

「幕末から明治にかけて、「民を済(すく)ふ」という規範的な意味は希薄となった」という「経済」という言葉、その雰囲気に抗うかのような金原明善の「事業経営の基本方針」ですね。

 

 

 

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ヨハネス・デ・レーケについての記事のまとめはこちら

そしてやはり現在の政治家の腐敗と政治家としての専門性のなさを思い出してしまいますね。