地図で金沢のあたりを眺めていた時に、すぐに目が行ったのは干拓地らしき場所でした。
内灘町のあたりで、おそらく汽水湖だった場所が半分ぐらい干拓地として開発されたように見えます。
砂州と思われる長細い場所の途中にまっすぐな水路があり、干拓地の周囲の調整湖からの排水路だろうと思われました。さらに地図を拡大していくと、その水路のそばに「風と砂の館」という資料館がありました。
それ以上は詳細はわからないまま、そこを訪ねてみたくなりました。
金沢駅から浅野川線の終点内灘駅に行き、そこから金沢医大行きのバスに乗れば近くまで行けるようです。
ただひたすら川と海を見に〜北陸編〜の最初の目的地はここにしました。
金沢も修学旅行で行ったことがあるのですが、確か駅周辺は平地だった記憶があります。
おそらく、北陸新幹線の車窓から印旛沼のように水田や農地が広がってみえるだろうと想像していたとおり、遠くに干拓地らしき場所が見えました。
ところが、その「砂州」は海岸線に広がる平らな地形のイメージとは全く違う小高い場所で、水路あたりの高いところにかかった橋と、そのそばにまるで要塞のように大きな金沢医科大学が見えました。その小高い場所まで斜面は住宅地として開発されていました。
ああ、金沢の「沢」というのは日本海に面した自然堤防の内側にあるこの低い場所の意味かもしれないとひらめいたのですが、どうなのでしょうか。
*内灘町歴史民俗資料館「風と砂の館」*
地図と航空写真では浅野川線の内灘駅周辺も平地に見えましたから、資料館のあとは調整湖の近くを歩いてみようと計画していました。
ところが北陸新幹線の車窓から見えた小高い場所を見て、それは無理な計画だとわかりました。
実際に歩いてみると金沢医科大学のあたりは「海抜36m」の表示があり、終点内灘駅から金沢医科大学まではまだ坂道を上ります。
そこから調整湖の方へは、今度はかなりの下り坂を下りなければなりません。金沢市内を見下ろすような高低差がありました。
さらに当日は34℃で、資料館まで15分ぐらい歩くだけで汗だくになり、意識が遠のきそうな暑さでした。
資料館のパンフレットで、ここが河北潟であることを知りました。
資料館の入り口に、「内灘闘争」という文字が見えました。
干拓地をめぐる反対運動だろうかと思って入館したところ、想像とは違う干拓の歴史を知ることになりました。
干拓地の歴史と一口ではまとめられない、それぞれの時代とそれぞれの場所の歴史があるのですね。
「散歩をする」まとめはこちら。