記録のあれこれ 52 「内閣中央航空研究所」

神栖市歴史民族資料館の少し手前に、記念碑がありました。

 

 昭和14年(1939)4月、航空技術の世界制覇をめざし、高速の成層圏飛行機の開発を目標に、内閣中央航空研究所は設立されました。当初は逓信省内に準備機関がおかれ、後に東京の三鷹市に研究所がつくられます。その飛行実験部が横浜に水上機用の実験場を設け、ついで神栖町域に「鹿島実験場」として陸上実験場を造成することになったのです。軍事要地として神栖が選ばれたのは、太平洋に面し、砂丘があり、広大な土地が安く入手できたことや、東京・横浜に近いわりに交通が不便で秘密を保つための適地とみられたことが 考えられます。

 昭和16年(1941)より18年かけて、用地の買収がはじまり、約800ヘクタールという広大な土地が、約600戸の所有者から買い上げられたのです。建設工事には地元の人々などが参加し、鹿島実験場には2,000㎡の格納庫2棟と滑走路が造成されました。

 戦時中でもあり、具体的な研究内容は不明ですが、昭和20年(1945)の3〜4月頃に練習機が数回飛行した程度だったということです。終戦後の昭和20年12月31日で研究所は解散され、職員と用地・施設などはいったん鉄道研究所へ引き継がれますが、戦後の海外引揚者などのために緊急開拓事業がはじまり、広大な用地は入植者に解放され、大野原開拓がはじまります。

 息栖から溝口にかけての広大な実験場は、現在では鹿島開発を経てこのような街並みに変わりました。

 一方、航空技術の開発から鉄道技術の新開発へと方向転換した技術者たちは、その成果を昭和39年(1964)東海道新幹線の開通として完成させるのです。

 

平成8年3月      神栖市教育委員会 神栖市歴史民族資料館

 

戦前もそして内灘闘争のように戦後も 、砂丘のある地域というのは時代の波に翻弄されてきたのですね。

私は今まで、日本の中で砂丘に生きる場所があるなんて考えたこともありませんでした。

 

それにしても、鉄道とは無縁の地かと思ったら、新幹線とも関わりがある地だったとは。

こんな記録を発見できるので、散歩はやめられないですね。

 

 

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