行間を読む 133 八戸港の歴史

八戸と聞くと、小学生の頃から工業地帯を連想しています。

1960年代ごろから岡山の児島湾にできた水島臨海工業地帯など全国に工業地帯ができ始めたことが、当時の小学生にとっては先進国入りの象徴のように社会科の授業で学んだからだと思い返しています。

 

八戸線の車窓から海岸線に大きな港と工業地帯が見えました。

帰宅してから「八戸工業団地」で検索しても、1990年代から開発された八戸北インター工業団地の説明は見つかったのですが、この臨海工業地帯については頼みのWikipediaがありませんでした。

 

どちらかというと八戸港としてその歴史がまとめられているようです。

 

戦後、1949年(昭和24年)には、戦前から始まり中断していた豊洲のデルタ地帯を工業用地として活用するための馬淵川の河川切替工事が終了し、河原木地区に臨海工業用地の第一工業港が完成した。その後、東北地方で最大と呼ばれた八戸火力発電所や製錬所の建設が進み、1957年(昭和32年)には重要港湾として位置づけられた。また、国の全国総合開発計画の策定により1964年(昭和39年)には八戸が新産業都市に指定された。これにより市街地開発及び港湾インフラ整備が強化され、新たに八戸大橋や八太郎大橋などの港湾道路建設や第二工業港の八太郎、河原木地区の岸壁工事も進められ、三菱製紙八戸工場をはじめとする重化学産業の誘致にも成功した。

Wikipedia八戸港」「歴史」)

 

小学生の頃の記憶は概ねあっていたようです。

 

*「八戸町での築港運動」*

 

現在の八戸港ができるまでの歴史を読むと、ヨハネス・デ・レーケと同じく明治時代に来日して全国の土木事業に関わってきたムルドルの名前がありました。

八戸港の歴史は八戸藩が開かれた17世紀の中頃に遡り、当時は鮫浦または鮫浦港と言われていた。八戸港と呼ばれるようになったのは八戸市市制施行後の昭和5年(1930年)からである。開港当初から漁港や悪天候時の避難港として利用され、寛文4年(1664年)には八戸藩が江戸へ廻米し、寛文11年(1671年)の東廻開運の就航で鮫浦は寄港地になった。明治時代になると、八戸町で築港運動が盛んに行われ、明治17年1884年)に内務省からオランダ人技師ローウェンホルスト・ムルデルの派遣により八戸港の測量が始まり、港湾計画策定に至った。

Wikipediaローウェンホルスト・ムルデルの「関与した案件」に「鮫港整備」がありますが、まとめはまだなさそうです。

 

大正8年(1919年)から鮫浦港の修築工事が始まり、昭和3年(1928年)に内務省指定港湾に位置付けられた。これにより更なる港湾整備が進み、昭和7年(1928年)からの商港第1期整備工事により北防波堤、3000トン岸壁、物揚場が完工した。これらの背景には『後背地に産出する石灰岩、砂鉄、硫化鉄などの豊富な地下資源が、八戸の近代化に大きく貢献し、港は工業港としてその機能を高めていく。

 

国土交通省東北地方整備局八戸港湾・空港整備事務所のサイトに「八戸港の歴史と将来像」があり、それを読むと、「砂浜でイワシの地引網漁」をする小さな漁港だったこの辺りが、鮫浦として17世紀ごろからは北前船の東廻路の港として栄え、さらに「明治27年(1894年)に湊線(今の八戸線)が開通すると、海と陸をつなぐ物資の輸送が増え」ていったことが書かれていました。

 

私のイメージしていた八戸港や工業地帯は、戦後どころか江戸時代からの歴史があったことを知りました。

 

そしてこの地の土木事業にもまた、生死をかけて、遠く祖国を離れて日本に技術や知識を伝えようとした人の存在があったのでした。

 

 

ムルドルについて書いた記事をこちらにまとめようと思います。

水のあれこれ 101   山梨の水との闘い

行間を読む 111   利根運河の歴史

行間を読む 123   明治時代から昭和にかけての干拓

行間を読む 124   生本伝三郎の計画とムルデルの科学的な調査

 

 

 

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