境界線のあれこれ 94 蛇行する道

散歩をしていると、「なんでもう少しまっすぐな道にしないのだろう」と思う場所がたくさんありました。

「ありました」と書くのは、最近はむしろその蛇行する道をそのまま残しておいて欲しいなという気持ちの方が強くなっているからです。

 

以前は、土地の所有者が境界線を譲らないから区画整理が遅れて複雑な道になっているのだと思っていました。

道をまっすぐにすれば、道幅も広くなってすっきりした街になるのに、と。

 

今では、地図をながめているとその蛇行が意味する地形をだいぶ読み取れるようになりました。

以前あった小さな川とか、その水がつくりだした地形によって、あの蛇行や高低差ができたことが想像できるようになりました。

 

土木技術の歴史はわからないのですが、もともと水が流れていた土地を埋め立てたり暗渠にして、頑強な地面にすることが可能になったのはそう昔のことではないのかもしれません。私が子どものころにできただろうと思われる住宅地を散歩すると、まだまだ蛇行した道がたくさん残っています。

 

おそらく住宅街でまっすぐな道があるのは、川が少なかった台地のような場所とか、反対に水田だった場所が新興住宅街になったところではないかと思います。

あの分水嶺に建っていた私の家のように。

そういう住宅街にはまっすぐな道があっても周囲はまだまだ入り組んでいたり、蛇行した道ばかりで、地図をみても複雑な町の姿です。そしてそのそばには、ほぼ、水の流れがあります。

 

*いつごろからまっすぐな道が増えたのだろう*

 

いつごろから、水の流れがあった場所を宅地やまっすぐな道路として利用することを可能にしたのだろう、干拓地の歴史とも関係があるのかなと、最近、気になっています。

 

というのも、祖父の水田があった場所は、岡山の干拓地の中でも明治から大正時代ぐらいに開発された地域ですが、かつて水田があった地域の道もまっすぐな道の方が少なくて、言われなければ「干拓地」であったとは思えないような地形です。

ところが、戦後に開発された地域は、まっすぐな水路とまっすぐな道で、地図を見るだけでここが干拓地だと想像がつきます。

 

あと、昨年、神栖市を訪ねる前に地図をながめていたら、市の中心部に道がまっすぐ続いてそこから整然と碁盤の目のような街があるいたことが印象的でした。

実際に歩いてみると、片側4車線の広い道路がずーっと続いています。

それを可能にしたのはあの辺りが砂丘の台地だったからだろうと思っていたら、実はその辺りも神の池と用水路が通っていた場所であったことを知りました。

 よくよく地図を見直すと、市の中心部から常陸利根川方面に向かって、何箇所もまだ蛇行した道と水路が残っている場所があります。

 

60年代とか70年代ごろから急激に、かつて水が流れていた場所を更地にしてその地形の痕跡さえ感じさせない土地に作りかえる時代になったのでしょうか。

 

防災とかバリアフリーといった面では有益な面がたくさんあることでしょう。

ただ、わずか数日で河岸段丘の記憶が曖昧になってしまうように、あっというまに以前の水の流れ方がわからなくなってしまうことに一抹の不安があります。

 

これからは蛇行した道もどんどんと減ってしまうのでしょうか。

 

大昔から人の手で地形を変えてきたのでしょうが、ちょっとその速度が急激な、時代の境にいることが不安の何かなのでしょうか。

 

 

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