行間を読む 84 常磐線と鹿島灘

「川や海をひたすらながめる」ことが好きなので、地図を眺めていると「ああ、惜しいなあ。もう少し海岸線に近いところを走っていればいいのに」と思う鉄道があります。

特に海岸線がまっすぐに長く続いている場所が、日本地図をみるといたるところにあります。

 

たとえば、石川県から福井県にかけての海岸沿いのように。

どうして鉄道が通らなかったのか、今なら少しわかるような気がします。

大きな干潟と砂丘が、ヒトがそこで生活をすることを妨げてきた時代がすぐ最近まであったからかもしれません。

 

太平洋側の鹿島灘あたりもそうです。

海岸線に大洗鹿島線は通っていますが、なぜ旧国鉄はこの辺りに常磐線を通さなかったのだろう、銚子から水戸まで海岸線に鉄道を作れば農水産物の輸送や観光にも便利そうなのにと思っていました。

実際に通ってみて、やはりあの辺りは干潟や砂地が多く、旧国鉄時代から現JRが走っている場所は、そうした地盤を避けてきたのだろうと推測できる場所でした。

 

鹿島灘砂丘の開発*

NHKの「しぶ5時」で偶然知ったのですが、あの鹿島灘はもともと砂丘地帯だったそうです。録画できなかったのでうろ覚えですが、半世紀ほど前から植林が始まりいまの姿になったようで、河北潟と似ています。

 

検索すると「砂と砂丘の地域誌(その11)ー茨城県南部・羽崎〜鹿嶋地域の浜と砂」(地質ニュース627号、2006年)に以下のように書かれていました。

 茨城県の南東端、利根川河口の波崎町から鹿嶋市にかけての鹿島灘に面する長い海岸線には砂丘群が発達している。かつて東京湾へ流下していた利根川は、江戸時代に流路を東に変えられ、今は太平洋に注いでいる。その流れは、霞ヶ浦の南側から鹿島砂丘の南西側を南東に向かい、砂丘南端の波崎でようやく太平洋に注いでいる。

 戦後、この砂丘海岸の一角には掘り込み式人工港湾「鹿島港」と大型工業地帯が建設された。 (「はじめに」より)

 

「近代以降の地形変化」では以下のように書かれています。

  明治37年〜38年測量の5万分の1地形図を簡略化し第3図に示した。これをみると台地の間の平地は、海岸沿いの砂州砂丘と、その西側の利根川沿いの低地とからなっていた様子がよくわかる。

 海岸沿いの鹿嶋市から波崎町にいたる地区は砂州でできており、その頂部は概ね標高5m程度の高度であった。その上を砂丘砂が覆い、ゆるくうねる地形を呈していた。また、地区北部では、海側から内陸側、神之池西側へ舌状の砂州の張り出しがあったように見える。地図上のあちこちに砂防林の造成、開墾などの努力の跡が残されている。大型砂丘が人々の開墾の労力をあざ笑うように聳え立っていたことだろう。(中略)

 

 その後、この地域では、利根川流路の整備、内浪逆浦の干拓昭和16年〜25年)が行われ、戦時中には現在の製鉄所付近に飛行場が造られるなどの地形変化をもたらす事業が行われたが、砂丘は昭和30年頃までは残っていたようだ。

 

 昭和40年代に入ると、鹿島港・臨海工業地帯の開発が始まり、昭和43年発行の地形図にも防波堤と掘り込みが始まった様子が示されている。 

 最近の5万分の1地形図を簡略化し第2図に示した。利根川沿いの低湿地では多くの湖沼が姿を消し、美田が広がっている。砂州の北側には鹿島港が大きく描かれ、その周囲に工業地帯が広がっている。砂州中央部にあった大型の砂丘は削られて、工業団地となり大きな工場が立ち並んでいる。かつての面影は公園に残された丘などにわずかに残るのみである。

 

*「この地域を貧困から 救いたい」*

鹿島臨海工業地帯といえば八郎潟のような大型の農業開発とともに、私が小学生の頃に社会科の授業では日本の経済成長の誇りのように学びました。

実際には公害問題など、このままではいけないのではないかと子どもながらに「開発」や「経済成長」という言葉に何かを感じることも多い時代でした。

 

神栖市教育委員会の「地域の歴史シリーズ」(2016年)には、この地域の変遷が時代ごとにまとめられています。

その「第9回」に、なぜ鹿島開発が始まったのかが書かれていました。

 鹿島開発を決断し実行したのは当時の岩上二郎知事です。岩上知事は就任して間もなく県内を視察して回りました。県北、水戸、県西と視察した後、鹿行に入り、そして神栖村に足を踏み入れた時の驚きは大変なものだったそうです。県内にこれ程の貧困地域があったのかとショックを受けたと記録されています。のうちは砂でやせており、生産性は低く、生活の貧しさの原因になっていたとあります。さらに風が強い日は砂塵がすごく、生活そのものが大変だったそうです。

 当時サナトリウムとして奥野谷浜に設置されていた白十字病院の院長先生は「この地域は年間を通じて赤痢が発生しています」と知事に言われたそうです。

 「この鹿島地域を貧困から救いたい」知事のこの決意が事業の実現に発展しました。 

そして昭和30年代に開発が始まりました。

 

そうなのだ、私が生まれた頃は「タンパク質が足りないよ」の時代の雰囲気がまだ残っていて、それは戦争による疲弊だけではなく、経済成長から取り残されている地域があちこちにあったということでもあったのですね。

地形に阻まれていた地域が。

 

1月に大洗鹿島線から見た風景はたしかに川や用水路は少ないのですが、森の中を電車が通過していくことが多く、半世紀前に植林が行われたとは想像がつかないものでした。

 

常磐線は、1896年(明治29)に東京・水戸間が開通し、その後1898年(明治31)に岩沼駅まで開通したそうです。

東京・水戸間を内陸部を通ざるを得なかったのは、砂丘が理由の一つといえるのでしょうか。

 

 

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