水の神様を訪ねる 15 川合の水の神様

奈良盆地のあちこちからの川が熊の手のように合わさりあう川合地区の集落のはずれに、川に面して神社があるようです。きっと水の神様に違いないと、計画の段階で訪ねることにしていました。

 

 

廣瀬大社

水田の向こうに、深い鎮守の森が見えてきました。

その手前に大きな用水路があるらしく、石造りの大きな橋が見えました。

まるで半円の橋で、すべって歩けないとのではないかと思うような湾曲を描いています。

こういう形をどこかでみたことがあると思ったら、琵琶湖疏水に行った時、蹴上の山の中にある日向大神宮へ向かう参道にありました。あの時は先を急いでいたので、渡らなかったのでした。

 

用水路には相当な水が流れ、橋の向こうは人の気配が感じられない鬱蒼とした森です。

「ここからは立ち入ってはいけない」という結界のように感じられる場所でした。

でもせっかく訪ねたのでと、思い切っていくことにしました。近づいてみると、急な石の湾曲に見えた橋は階段のつくりになっていました。

 

誰もいないと思った森に足を踏み入れたとたん、ガサガサと足音がしました。

「ヒイッ」と思わず声が出るほど驚いたのですが、どうやら本当の参道の入り口は南側で、そこから参拝に訪れた人たちがいたのでした。

 

廣瀬大社の歴史にも「水神を祭る」と書かれています。

境内の説明にはこう書かれていました。

廣瀬大社は、奈良盆地の多くの河川が合流して大和川となる水上交通の要衝に位置しています。神社の西方には明治の中頃まで「川合浜」という船着場があり、物資の集散地として賑わっていました。

『可相宮縁起』では崇神天皇の時代に創建されたとされ、『日本書紀天武天皇四年(六七五)条に、龍田の風神とともに祭祀をおこなった記事が見られます。その後、戦国時代に途絶えるまで毎年四月と七月に朝廷より使者が遣わされ、祭祀が行われていました。戦国時代から江戸時代初期にかけて一時衰退しますが、元禄年間に復興し、旧廣瀬郡の総氏神として広く崇敬を受けるようになりました。祭神は主神が大忌神の異名を持つ若宇加能売命(わかうかのめのみこと)で、水の神、水田を守る神、五穀豊穣の神として篤く信仰されています。 

 

そういえば、途中の水田にも水分神(みくまりのかみ)が祀られていました。

廣瀬大社の前に広がる水田は、いつごろからのものなのでしょう。

 

 

川合へ向かう途中、富雄川のそばにも御霊神社がありました。

神社の説明書きの祭神の部分がかすれてしまって読めなかったのですが、やはり水神のようです。

 

水は水害も起こすけれど豊かな恵みも与えてくれてきたのだと、もう一度、大和川にかかる橋の上から川面を眺めたのでした。

七世紀ごろの風景を想像しながら。

 

 

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