水の神様を訪ねる 89 赤川堤防の守り神

ぐるりと最上川と旧赤川の河道から赤川沿いの水田地帯をまわって鶴岡駅に到着した時にはまだ35度ぐらいありましたが、日が傾きかけると風が涼しく感じました。

駅から南東へ数百メートルほどのところに、赤川と並行して流れる新内川のそばに水神社があります。

地図で見つけてぜひ訪ねてみたいと思っていました。

 

県道349号線を道なりに歩き、国道112号線にぶつかるところに堤防の内側へ下った低い場所にありました。

小さいながらも鎮守の森があり、古い木のお社が日本海側に向かって建っています。

 

そばに石碑があり写真に撮っておきましたが、帰宅してから改めて読み直しても、ところどころ意味がつかめるぐらいの旧字体が多い漢文です。

明治12年に彫られたその文字はかすれている箇所も多く、写真から読解するのも難しいものでした。

 

*「赤川堤防の守り神」*

 

ダメもとで御由緒を検索してみたところ、「神奈備」というサイトがありました。

水神社 (鶴岡市宝町)

山形県鶴岡市宝町19-17 (大宝寺字大宝地214)

 

祭神

御都波能賣命 配祀 赤比古神、赤比賣神、宇賀之魂命、須佐之男命、大市姫命、大己貴命五十猛命

 

由緒

創建年代は不詳。

文政八年(1825年)赤川堤防の守り神として勧請。

明治一八年川橋架橋の際に境内に築立て、水神社合祀、他稲荷神社合併。

出羽の山岳信仰は三山が代表的なものだが、他にも中世にまで遡るものとして、飯豊山、朝日山、吾妻山、蔵王瀧山、御所(船形)山、神室山鳥海山、金峰三山(金峰、母狩、摩耶)など。『山形県の歴史』から。

 

お姿

境内の清掃整い、また東側にはお花畑、美しく保たれている。

 

「お姿」から実際に訪ねたことが伺えますが、ほんと、世の中にはさまざまな先人の記録がありますね。

 

「赤川堤防の守り神」とありますが、現在の地図では新内川(しんうちがわ)の堤防のそばで、その東300mほどのところに赤川が流れています。

新内川と赤川の歴史はよくわからないのですが、昔はこのあたりまで赤川だったのでしょうか。

 

 

*水の安全を願う例祭*

 

もう一つ、「庄内日報」の「謡で水の安全願う 鶴岡・大宝寺町 水神社例祭」(2014年8月7日)の記事がありました。

 鶴岡市大宝寺町の水神社(武田紘宮司)の例祭が5日行われた。伝統の「子供謡くねり」として、かみしもを着け、手にちょうちんを持った子供たちが水の安全などを願いながら、謡曲高砂」を謡い、宵の町内を練り歩いた。

 かつては氏子会による謡が中心となり、ご神体の「御鉾様(おほこさま)」を下ろす当屋(神宿)を立てて行う伝統の様式だった。生活の変化に伴い、1985年ごろから段階的に当屋制度を廃止するとともに、祭事は大宝寺第一町内会(大瀧啓之介会長)が中心に担うようになった。

(以下、略)

 

「生活の変化に伴い、1985年ごろから段階的に当屋制度を廃止するとともに」

私自身が親が転勤族で、自分の土地に生きるという感覚がないまま育ったので、この時代の神社の伝統行事はすでにエキゾチックで、自分よりも下の世代がそれらを伝えていることが不思議に感じていたことを思い出しました。

 

赤川の水害の年表によると、その2年後には大洪水が起きているようです。

昭和62年   赤川大洪水(家屋流失破損4戸、浸水368戸、田畑流失812ヘクタール、土砂崩れ83箇所)

 

なぜこの低い場所に水の神様が祀られ、今も地元の方々によって境内が美しく整備され続けてきたのでしょう。

どんな生活が守られてきたのでしょう。

 

 

 

 

「水の神様を訪ねる」まとめはこちら