水の神様を訪ねる 94 豊川放水路と豊川の間の水の神様

「霞堤」の地域から豊川を渡ってJR飯田線江島駅まで歩くというのは無謀すぎる計画だと散歩の2日目に早々に気づき、土合バス停から新城(しんしろ)駅までまたバスで戻りました。

途中、新城市内の田園や集落が整然として美しく、いつかもっと歩いてみたいと思いました。

 

予定変更ですが、昼食をはしょれば時間的には大丈夫そうです。

13時43分の飯田線に乗り、14時10分に小坂井駅で下車しました。

豊川放水路右岸側の地域が、少し低いところに見えます。駅から下り坂を歩いて200mほどのところにある菟足神社(うたり)神社に立ち寄りました。もしかすると、豊川放水路ができる前の様子を知ることができるかもしれません。

 

御由緒に書かれていました。

弁慶松の伝説と歌枕「しかすがの渡し」

 弁慶が東行のおり、大雨で対岸へ渡れず渡津に逗留した時に植えた松と伝えられてきた。奈良時代から平安時代の十世紀頃まで菟足神社前は、大小の洲がある広大な入り江であり、対岸の飽海、坂津方面へは船で渡っていた。枕草子にも書かれた「しかすがの渡し」がどこにあったのかは特定できないが、ある時期にはこの浜辺にあったと思われる。

 

現在は豊川の河岸段丘で、1965年に豊川右岸に豊川放水路が造られたこの広い河川敷のような場所は、10世紀は海だったようです。

 

神社から下り坂を降りて国道151号線の交差点に出ると、北東に昨年6月の大雨で浸水した青山病院がすぐそばに見えました。豊川放水路からわずか200mほどの水田地帯に建っています。

病院や介護施設が被災すると、明日は我が身で、どう対応するのかあれこれと想像しながらニュースを追っています。

 

 

*豊川放水路右岸側の水田地帯を歩く*

 

国道151号線は海へ向かうにつれて高架橋になるためか、途中からは歩行者が入れないようです。

一本西側の県道385線を歩くことにしましたが、大型車がひっきりなしに通行するのに白線が突如として無くなる道路で、車が来るたびに退避しながら歩きました。空き地や小さな田畑がぽつりぽつりとあります。

 

JR飯田線名鉄線の高架の下をくぐり、少し先のJR東海道線の高架をくぐると、その先に新幹線の高架橋が見え始めました。

豊川と豊川放水路を通過するときにはいつも車窓の風景に集中していたのですが、実際にはその新幹線の上をさらに国道151号線の高架橋が交差する場所でした。こんな高い場所ですから歩行者が入れないのも無理ないですね。

 

2万歩近くなり足が疲れていましたが、青空に真っ白な車体の東海道新幹線が頻繁に通過する美しい風景です。いつも車窓から見えていた場所はこんな地域だったのですね。

新幹線の高架橋をくぐり南側に出ると、大きな延命寺がありその周囲には水田地帯が広がっています。ほとんど稲刈りが終わっていましたが、田んぼと新幹線、いい風景です。

 

後ろ向きに歩きながら、新幹線を眺めました。こどもみたいな歩き方ですが、誰も歩いていませんからね。

 

 

*豊川放水路の左岸にある水神神社へ*

 

新幹線の線路から南西へ1kmほど歩いたところで国道23号線の橋で豊川放水路を渡りましたが、川の周囲には遮るものがないので新幹線の橋まで見ることができました。

 

散歩2日目の最後の目的地の水神神社を目指します。

地図で豊川放水路の両岸を眺めていたときに、ふと目に入りました。

外河原地区とその南西の加藤地区の境にあります。そこから渥美湾にかけて豊川と豊川放水路に挟まれた加藤地区は干拓地のように見えますから、何か歴史が書き残されているかもしれません。

 

橋を渡ると、豊川放水路左岸の堤防の下へと下り坂になり、「海抜2m」と表示のある住宅地を抜けると鎮守の森がありました。

広い水田地帯で、その先に海と間の堤防がぐるりと囲んでいるのが見えます。

いつ頃の干拓地なのでしょうか。

水神神社は社殿というよりは小さな祠が祀られていました。

 

水神神社の南東に木々が見えたので惹かれるように近づいてみると、豊川右岸の河口付近の清須河川敷公園で、すぐ先に渥美湾が太陽の光で輝いていました。

堤防に沿って近所の方が散策したり、ベンチに座って豊川の河口を眺められるようになっていました。

 

ああ、なんと美しく落ち着いた街なのだろうと、水の神様に導かれて散歩をしたことに満足して豊橋駅行きのバス停へと向かいました。

 

「清須」の「須」はおそらく入り江時代の「洲」に由来しているのでしょう。

海から干拓地へ、そして放水路が造られて、新幹線が通過する地域になった。

十世紀ごろの風景からの変化を想像して気が遠くなりました。

 

 

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