落ち着いた街 7 平城京

法隆寺駅を出ると、10分ほどで奈良駅につきます。

地図で奈良県の川を見始めた頃に、法隆寺から大和郡山、そして奈良までの沿線に水田が広がっていることに狂喜乱舞の気持ちでした。航空写真を見ても、現在も水田が広がっています。

地図ではたくさんの用水路とともに溜池が描かれていて、ここもまた1日ぐらいかけていつか歩き通してみようと密かに計画していました。

 

今回は残念ながら素通りですが、下見ということで車窓から眺めました。

春日山も近くに見え、その手前に水田があちこちにあります。奈良と斑鳩の里という屈指の観光地のそばなのに、この悠久の時を感じさせる風景が残っています。

大和郡山のあたりで大和川の支流の佐保川の近くを走り、奈良駅のすぐそばまで住宅と田畑です。

風景をさえぎるビルもほとんどなく、なんと落ち着いた街だろうと、奈良がますます好きになりました。

修学旅行や80年代に訪れた時の街の記憶がほとんどないことが悔やまれます。

半世紀前の風景はどんな感じだったのでしょう。

 

奈良時代の日本の首都*

 

帰宅してからあらためて平城京を読んで見ました。

平城京(へいじょうきょう、へいぜいきょう、ならのみやこ)は、奈良時代に日本の首都であった都市。

 

藤原京から平城京への遷都は文武天皇在世中の707年(慶雲4年)に審議が始まり、708年(和銅元年)には元明天皇により遷都の詔が出された。しかし、710年(和銅3年)3月10日(旧暦)に遷都された時には、内裏と大極殿、その他の官舎が整備された程度と考えられており、寺院や邸宅は、山城国長岡京に遷都するまでの間に、段階的に造営されていったと考えられている。恭仁京難波京への遷都によって平城京は一時的に放棄されるが、745年(天平17年)には、再び平城京に遷都され、その後784年(延暦3年)、長岡京に遷都されるまで政治の中心地であった。山城国に遷都したのちは南都(なんと)とも呼ばれた。 

 

平城京のふりがなに「へいぜいきょう」とあって、習った記憶がないと思ったのですが、Wikipediaの「名称」には、1980年代に入ってこの読み仮名が併記され始めたことが書かれていました。

また恭仁京も記憶になく、なんと読むのかさえわからなかったのですが「くにきょう」だそうです。

 

平城京の「発掘・調査」を読むと、私が中学生の頃に習ったことも、気が遠くなるような研究によることだとわかります。

 北浦定政が、自力で平城京の推定地を調査し、水田の畦や道路に街の痕跡が残ることを見つけ、1852年(嘉永5)『平城宮大内裏跡坪割之図』にまとめた。さらに関野貞は、大極殿の基壇を見つけ、平城京の復元研究を極めて、その成果を『平城宮大内裏考』として1907年(明治40年)に発表した。棚田嘉十郎によって「奈良大極殿保存会」が設立され、1924年から平城宮の発掘調査が行われた。1959年以降は、奈良国立文化財研究所が発掘を継続しており、2004年現在では、約30%が発掘されている。

 

歴史を正確に言葉で表現するためには、時間と調査・研究を続ける人たちが大事ですね。

学問とか専門性とはこういうことを指すのではないかと、そして長い時間をかけて築き上げていくものだと、落ち着いた街の印象の理由を考えたのでした。

 

 

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