米のあれこれ 46 平城京右京の水田地帯

平城宮跡の一面にツルボの花が咲く風景は幻に終わりましたが、まだまだ奈良市内を歩く予定なのでなんとかツルボを見ることができることでしょう。

なんといっても水田と畦道が散歩コースですからね。

気を取り直して次の目的地に向かうことにしました。

 

地図では、平城宮跡歴史公園内に北から南へと何本かの水路が描かれています。

最も西側の水路をたどると平城宮からまっすぐ南へ数百メートルのところに大きな溜池があり、さらにそこから200mほどのところに四条池があります。小さな川を隔てて唐招提寺があり、さらに数百メートル南にその川沿いに薬師寺があります。薬師寺の南側に描かれている水路をたどると、奈良医療センターの前に大池があります。

2年前に平城宮ツルボを見にいく計画を考えて地図を眺めていた時に、有名な寺社がこんな場所にあったのかと驚きました。

 

修学旅行で行って以来、碁盤の目のような平城京の真ん中にそういう大事なお寺があったように思い込んでいましたが、よくよく見ると盆地の端に並んでいる感じです。

そしてそのそばに大きな池や古墳があることが初めて見えてきました。

 

平城宮跡から水路をたどって唐招提寺から薬師寺まで歩いてみよう。それがこの日の次の計画でした。

 

*三条大路の南側の水田*

 

平城宮跡は風と草のかすれる音しかないような静寂さでしたが、外に出ると交通量の多い県道1号線で現代に引き戻された気分のまま南へと向かいました。

 

ショッピングモールの横の道路を車を避けながら歩き、三条大路を抜けて国道308号線を渡り、さらに南へと住宅街を歩くと小さな天神社の祠がありました。

ふと左手を見ると、そこには稲穂が重くなった水田が広がっています。地図に描かれていた名も無い大きな溜池は、今も水田のためにあるようです。

元気が出てその溜池の方向へと歩くと、目の前に大きな水面が見えてきました。

平城宮跡からわずか数分の住宅街に田畑があり、柿の木に青い実がなっていました。

今度は1300年前にタイムスリップした気分です。

 

観光バスも多い県道9号線沿いに南へと歩くと、左手はずっと水田地帯が広がり、右手は川との間に畑や住宅があります。

川の反対側はこんもりとした森があり、唐招提寺の敷地でした。

 

そういえばまだあの四日市のパンを食べたきりでお腹が空きました。14時半で、お店がどこも閉まる時間です。ご飯を食べそびれてはいけないと、ちょうど開いているお店に入りました。

席に座ったところ、お店のドアがガラス戸だったので目の前に広がる水田がまるで一枚の絵のように見える特等席でした。

水田の向こうには春日山などの山が見えます。

黄金色の稲穂を眺めながら美味しいおそばを食べるという、贅沢なお昼ご飯になりました。

 

唐招提寺から薬師寺へ*

 

お店を出るとすぐに四条池がありました。その向こうには薬師寺五重塔も見えます。唐招提寺薬師寺が隣同士だったとは、修学旅行の記憶からはすっぽりと無くなっています。

広い敷地を歩いたような記憶と、水田を見たような記憶が残っているのですが、もしかするとこの辺りの風景かもしれません。

 

県道から唐招提寺の間にある秋篠川へ向かう道は唐招提寺の参道なのですが、そのそばも水田でした。

北から南へとまっすぐ流れるこの川は途中から佐保川になり、南西へと流れを変えながら大和川と合流してあの法隆寺駅の近くの川合に流れていくようです。

 

秋篠川の遊歩道沿いに田畑や堤防の草むらがありツルボを探しましたが、やはり見つかりません。

途中で秋篠川の水量が増えて堰があり、「五条六条共同井堰完成記念」という比較的新しい石碑がありました。地図では五条町、六条東町のあたりでした。

 

水田の向こうに薬師寺五重塔が見えます。右に曲がって川沿いに少し上り道を歩くと、薬師寺前にも溜池があり、周囲の瓦屋根の家並みと美しい風景です。

薬師寺の南側の土塀はところどころ崩れていて、中の薬師寺の建物が見えました。

狭い道を行き交う車を避けながら歩くと、踏切があります。薬師寺の真横を近鉄橿原(かしはら)線が通っていました。修学旅行の時にもこんな近くを電車が通っていたとは。本当に記憶は頼りないものです。

 

踏切を渡ると水田の畦道から川沿いに両側が高くなった場所に入りました。右手は森で、左手はどうやら大池の土手のようです。人通りの少ない道を上って交差点へ出てから、大池へとまわりました。

今まで歩いた平城京よりも小高い場所にある大きな溜池で、水鏡には空だけが映り、その向こうに春日山が見えます。

 

平城京とは奈良盆地の中にこじんまりと収まっている場所だったのだと、半世紀前の修学旅行で訪ねた記憶が一新されていきました。

 

ここまでもまたツルボを一本も見ることができませんでしたが、平城京に広がる稲穂を見て満足し、バスで奈良駅へと戻りました。

 

 

*強者どもが夢の跡*

 

さて、こうして散歩の記録を書いているうちに疑問が出てきました。

 

この日歩いた場所は、平城京の都市計画でいえば平城宮のすぐそばの右京という中心地ということになります。

ところが、発掘調査のきっかけとなる1852年(嘉永5年)の「平城宮大内裏跡坪割之図」が書かれた時点では「水田や畦道や道路」だったようです。

 

平城京の中心地がなぜ現代では水田なのだろう。

 

江戸時代から現代に至るまで緑化と砂防工事が終わっていないほど、田上山(たなかみ山、現在の大津市)のヒノキを大量に伐採して造られた平城京だったようですが、その中心部が水田へと変わっていったのはいつ頃で、その時代はどんな様子だったのでしょう。

 

 

水田についての今までの無から有を作り出すような開墾というイメージがくつがえされる、奈良の田んぼの歴史があるのでしょうか。

「強者どもが夢のあと」とふと思いましたが、その時代を越えたからこその今の奈良の美しく落ち着いた風景なのかもしれないと、思えてきました。

 

 

 

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