昨年11月に周濠を訪ねるために天理市の成願寺バス停で下車して国道169号線から山側へと曲がったところに、用水路が通っているのが見えました。途中暗渠になっていますが、奈良盆地の南側の山裾に沿って流れているように見えます。
溜池だけでなく、やはり用水路が整備されなければこのあたりの水田地帯を潤すことはできないのだろうと思いながら、ところどころこの用水路に近づいたり遠ざかったりしながら三輪方面へ歩きました。
取水しているのは大和川だろうかと思いながら歩いていると、吉野川分水、大和平野土地改良区という標識を見つけました。
現代の大規模な総合開発計画の一つでしょうか。
帰宅してから検索すると確かに完成したのは昭和の終わり頃ですが、「吉野川の水を山を越えて奈良盆地へ」という計画というか願いは江戸時代からあったことを知りました。
そして取水堰があの大淀町のあたりであることから、11月は通過してしまった大淀町を歩いてみたいと思いました。
さらに検索していたら「吉野川分水歴史展示館」があるようです。
1日目の最初は、ここからスタートすることにしました。
JR畝傍駅で下車し、近鉄八木から奈良県立医科大学病院のそばを通過してひと駅、畝傍御陵前駅で下車しました。
西に大和三山の一つ畝傍山が美しい円錐形ですくっと立っていて、目の前には飛鳥時代ごろからありそうな水田地帯が広がっています。
しばらく畦道を歩き、水田地帯の中にある大和平野土地改良区の建物の中に吉野川分水歴史展示館がありました。
吉野川分水とは?
奈良県の大和平野は「大和豊年米食わず」といわれるように、古来より農業用水不足に悩まされており、江戸元禄の時代から吉野川(紀の川)の水を大和平野へ引き入れる計画が幾度となく提案されてきましたが、当時は工事の難しさ、資金が膨大になること、そして和歌山県との調整など、多くの問題により実現は至りませんでした。昭和27年に始まった世紀の大事業「十津川紀の川総合開発」により、昭和31年にはじめて吉野川の水が大和平野に分水されました。以来、工事の進捗とともにそのおかげで大和平野は潤い、安定した営農が可能となりました。また、吉野川分水は地下水のかん養や水質保全等にも大きく役割を果たしています。
(展示館のパンフレットより)
太古の昔からの水田のように見えた風景はまた違う歴史がありました。
「水のあれこれ」まとめはこちら。