記憶についてのあれこれ 165 怖さを忘れていたのか

楽しかったことや自信を持っていたことよりも、怖い経験というのは忘れにくいものだろうと思っていました。

 

特に、「10年やってわからなかった怖さを20年やって知るのがお産」という言葉に出会った頃は、お産は怖いとおっしゃっていた大先輩の気持ちが少しわかる年代になっていました。

 

さて、自分の年表を整理し始めたのですが、その手帳をつけ始めたのが2004年頃です。

それ以前の記録はつけていなかったのは、残念です。

 

ここ十数年の手帳を読み返して、けっこう怖い状況に当たっていたことを思い出しました。

手帳なので、わずか1行ほどで何があったかだけを書き留めているのですが、その1行だけでも「よくぞお母さんと赤ちゃんが無事だった」「よくあのマンパワーで対応した」「すぐに搬送先が見つかって助かった」「あの時は数時間も搬送先が見つからなかった」といった記憶が蘇ってきたのですが、いまは怖すぎて、二度と同じ状況には遭遇したくないとおじけづいています。

 

「怖いことを忘れていた」わけではなくて、封印しているのかもしれません。

 

新しい治療方法とかそのケアを知らなくて対応できないことのないように、という不安と緊張ももちろんあるのですが、やればやるほど「想像もしていなかった状況」が出てくるので、人間の体のことでわかっていることなんて本当にわずかなのだというあたりで怖さを感じています。

 

それは今までの経験からきた自信なんて吹き飛ぶ「わからなさ」が見えるようで、それを直視したら仕事を続けられなくなりそうな、そんな気持ちに揺れている感じです。

 

30代とか40代の頃は、なんであんなにバリバリと仕事をしていたのでしょう。

あの頃の自信はなんだったのでしょうね。

 

 

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