正しさより正確性を 6 <全体をとらえて正確性がわかるようになる>

20代から30代の頃の自分を思い返すと、新しい知識を吸収してバリバリと働いているのだという根拠の無い自信に満ちて、社会を変えなければと正義感と理想に突き進んでいました。


その当時というのは、40代50代あるいはもう少し上の世代というのは「自分の考えもはっきりしていなくて流されている人」のように思えて、こちらの記事に書いたように、「お産は怖い」と暗に戒めてくださった大先輩がたを何の信念もないただ雇われているだけの助産師と、ちょっと心の中で見下していたのだと思います。


今、20代30代の人たちと一緒に働いていると、私がその「見下されている」立場になったことを感じます。
自信をもって、やや断定的な口調になりやすい言葉の裏にあるものも感じ取っています。
数年とか10年ぐらいの経験というのは、それはそれでもちろんすごいのですが、私自身が背伸びをして根拠の無い自信に満ちた発言をしていた姿を重ね合わせてみています。


<10年やってわからなかった怖さを20年やって知るのがお産>


10年やってわからなかった怖さを20年やって知るのがお産という言葉を聞いたのが、私が助産師になって20年ぐらいの時でした。
心からそう思える時期に出会ったことは幸いでした。
そして、今はさらに「20年やってわからない怖さを30年やって知るのがお産」に変化しています。
あるいは、時代の変化を見極めていくことの難しさもありますね。


経験年数が経験と比例するという単純な話ではないのですが、やはり時間をかけて見えてくるものがあることは確かではないかと思います。



「根拠のない自信」を言い換えると、「知識はあっても、自分がわからないことが見えていない」とでもいうのでしょうか。


そういう時期には強い口調で「こうであるはず」と主張しやすいので、周囲の人は黙ります。
もっと違った見方や気持ちがあることも見えにくくなっていました。
そして黙っている人を、何も意見を持たない人であるかのように思いこみやすかったと思い返しています。
そして反対に、自分はよく物ごとがわかっていると自信を強めていたのだと思います。



<全体をとらえて正確性がわかるようになる>



「全体をとらえて」と書いていることと矛盾しますが、最近は自分が「全体を見ていた」と思っていたことが実はごくごく小さな局面であったと思うことがありすぎて、「全体」というのは限りなく無限に近いものなのかもしれません。


あの根拠の無い自信に満ちていた時期が嘘のように、自分はどれほどわかっていたのか、どれほど知っていたのかと、逡巡することが増えました。
その逡巡の中で、全体とは何かをとらえ直している感じです。


ですから、「これが正しい」「これが良いこと」と断定的な発言に対しては、「(そうとも言えないのではないか)」「(別の見方もあるはず)」と言葉を飲み込んでいます。


鼻っ柱が強かった私を、当時、大先輩たちはこんな思いで見守っていてくれたのかもしれないと、ようやくわかるようになりました。


これが40代とか50代ぐらいからの発達課題なのかもしれませんね。
そして、「丸くなる」と言われることの意味なのかもしれないと思うこのごろです。



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