水の神様を訪ねる 45 稲城市長沼の青渭神社

南多摩駅に降りた時には、7月初旬の蒸し暑さの中、さらに小雨がぱらついていました。

歩き出した時には幸い雨はやんだのですが、少し歩くだけでじっとりと汗が出てきました。

 

お隣の稲城長沼駅まではわずか1kmちょっとですが、水田通りを歩き始めた時には蒸し暑さのために引き返そうかなという気持ちもちょっと出始めていました。

ところが美しい大丸用水と水田、そして津島神社を歩いたら、やはり目的地まで頑張ろうと元気が出てきました。

 

JR稲城長沼駅は今まで南武線に乗った時に通過しただけですが、その南側を通る京王相模原線稲城駅周辺では梨の果樹園を車窓から見た記憶があります。

いつ頃からか、稲城は梨の産地というイメージがありました。

 

*青渭通りから青渭神社へ*

 

津島神社から旧川崎街道を歩くと青渭通りがありました。

稲城長沼駅の南側へゆるやかに蛇行しながら、これから再開発が行われるための空き地と昔からの商店街をぬけ、川崎街道を越えて青渭神社のそばへと青渭通りが続いています。

 

鬱蒼とした青渭神社の鎮守の森があり、境内に入りました。

「御由緒」がありましたが、ところどころ字が消えていました。残念と思いながら境内を出ると、鳥居のそばにまた説明文がありました。

昔は此の付近に大きな青い沼があり、その神霊を祀ったことが起源とされるために青沼大明神とも称される。祭神は出雲系の青い神で、農耕や生産に霊験あらたかな神である。

 

*長沼と梨*

 

境内には「江戸・東京の農業 東京のナシ栽培の起源」という説明もありました。

 武州多摩郡長沼村(現在の稲城市東長沼)の当青渭神社周辺は、古くから有名なナシ産地として知られています。その起源は古く元禄年間(1688~1704)、当時の代官増岡平右衛門と川島佐次右衛門が、山城國(京都)に旅行した折に、淡雪(アワユキ)という品種の苗木を持ち帰って植えたのが、始まりとされています。

 その原木は明治22年まで、東長沼の川島邸内に保存されていました。ひじょうに大きなもので、幹の周囲が180cm余り、棚作りにされていて枝の広がりは、100㎡にも達していたと言われていました。

 このほか江戸には、東葛西の新川(江戸川区)沿には新川ナシの産地があり、また、明治初期に荏原郡六郷村羽田(現在の羽田空港付近)にも大産地がありました。

 

Wikipedia多摩川梨を読むと、この辺りでは「明治中期ごろから梨栽培が活発化」「水田から梨栽培に転換する農家が多かった」とありました。

そして「日中戦争・太平洋戦争が始まると人手・物資不足、梨栽培から麦への転換が相次ぎ、1944年(昭和19年)には作付け面積は最盛期の5分の1まで減った」とありますから、安定して農作物を作り続けることは大変 ですね。

 

参道を出ると目の前には梨園が広がっています。

周囲は住宅に囲まれているのですが、よくよくみると梨園の敷地だけ一段低い場所があります。

これがもしかすると「沼」だった痕跡でしょうか。

 

ここから上り坂になって、南多摩尾根幹線道路に出ました。三沢川を越えると京王線稲城駅まではさらに急な上り坂で、三沢川右岸にある亀山山下公園にはこの傾斜を利用した滑り台もありました。

小高い場所にある稲城駅につく頃には、膝がちょっとガクガクしたのでした。

地図や車窓からだけではわからない、なんとも複雑で急峻な地形です。

 

同じ青渭神社でしたが、多摩川対岸の深大寺のそばの青渭神社とは、地形も歴史も異なる場所でした。

長沼という地名からもわかるように、この地は多摩川の氾濫原であり、長く沼地であった。その為、かつては大沼明神、青沼大明神などとも呼ばれていた。この長沼の地にしろ深大寺にしろ水に関わりが深い土地であり、青渭神は水神であると考えられている。

Wikipedia「青渭神社」)

 

 

 

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