水の神様を訪ねる 39 深大寺の青渭神社

深沙大王を訪ねる前に、もう一つ気になっていた水の神様を訪ねることにしました。

 

深大寺前からバスに乗って三鷹や吉祥寺方面へと帰る時に、青渭神社前というバス停を通過します。

深大寺のすぐ隣にあって、「渭」というさんずいのつく漢字から水の神様だろうと見当をつけたのですが、なかなか訪ねる機会がありませんでした。「深大寺道をゆく」の中で、この神社についてと、深大寺小学校と深大寺の間の道に水道局の水源施設があることが書かれていたので訪ねてみることにしました。

 

 

場所は、ちょうど都立農業高校神代農場の湧き水がある谷戸の上です。

鬱蒼とした鎮守の森に、大きなケヤキがあります。樹齢数百年という説明とともに、こんなことが書かれていました。

なおケヤキは武蔵野の防風林として特色を持っている。また社前を「池の谷戸」と呼ばれ昔は青波をたたえていたという。この付近から主として縄文時代中期の土器が発見され、殊に打製石斧が多量に出土したのでその製造所があったと推定されるなど、古代人の住居跡である。

 

「青波」については神社の御由緒に書かれていました。

 当社の創建年月日は不詳であるが、往古(三千年〜四千年以前)先住民が水を求め居住した際、生活に書くことのできない水を尊び祠(ほこら)を建て、水神(すいじん)様を祀(まつ)ったと伝えられている。

 ご祭神は水波能賣大神(みずはのめのおおかみ)・青沼押比賣命(あまぬまおしひめのみこと)、一説に社前に棲(す)む大蛇を祀ったともいわれる。

神社明細長等によれば、当社は第六十代醍醐天皇の延長五年(九二七年)に編纂された『延喜式』(えんぎしき)所載、武蔵國多摩郡八座のうちにて官祭の重き御社であったと伝えられる。往古は社前に五町歩余の境内地があり、大池にこんこんと湧き水あり、青波をたたえていたところから青波神社とも称せられた。池水は干ばつの折も枯れる事なく、田用水等に用いられたといわれる。周辺は武蔵野文化発祥の地であり、清水の湧き出る所、人々の生活と密接な関連があったと考えられる。青渭・青波共に水の意であり、「渭」とは広遠に波立つ様をいい水面に波打ち寄せる意で、水神様を祀った古社である事は疑う事はできない。明治六年十二月郷社(ごうしゃ)に列せられた。氏子地域は深大寺町全域(元・南・東・北町)と調布ヶ丘の一部にまで及ぶ。社前にケヤキ(槻・ツキ)の老樹がそびえ、市内現存最古の巨木で、昭和四十七年調布市天然記念物に指定された。又、御社殿も甚だしく荒廃したため、御大典(おたいてん)事業として再建に務めた結果、平成四年十月無事竣工隣同月二十五日盛大に奉祝際(ほうしゅくさい)を斎行した。御社殿は権現(ごんげん)造りで建坪三十坪、屋根は銅板葺きである。

 

「大池にこんこんと湧き水があり、青波をたたえていた」

今の神代水生植物園あたりが大池だったのでしょうか。

そして、「干ばつの折にも枯れることなく」ほどの湧水地帯だったこのあたりを、安政二年の大地震が一変させ深大寺用水建設が必要となったということでしょうか。

 

Wikipedia 青渭神社を読むと、青梅市沢井と稲城市東長沼にもあるようです。

 

稲城市東長沼は、多摩川を挟んでちょうど反対側の右岸あたりです。

長沼という地名からもわかるように、この地は多摩川の氾濫原であり、長く沼地であった。その為、かつては大沼明神、青沼大明神などとも呼ばれていた。この長沼の地にしろ深大寺にしろ水に関わりが深い土地であり、青渭神は水神であると考えられている。

 

多摩川が氾濫すると袂をわかつような状況になっていた時代に、信仰が近くの村へと伝わっていったのでしょうか。

 

 

 

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