9月初旬はまだ都内の感染者数が3000人台でしたが、1週間で1500人台に下がり始め、中旬には1000人を割る日も出てきました。緊急事態宣言を9月末まで延期し、さらにワクチン接種を進めた効果でしょうか。本当にすごい見通しと感染症対策です。
まだ緊急事態宣言は解除されていなかったのですが、7月に天候が悪くなって引き返した散歩を9月下旬に実行することにしました。10月まで待つと、稲刈りが終わってしまいそうでしたからね。
JR東大宮駅と蓮田駅のちょうど中間に、ため池のような場所の近くに数本の水色の線が交差している場所があって、以前からずっと気になっていました。
一本はどうやら見沼代用水らしいということがわかり、ここを訪ねる計画です。
*見沼代用水の遊歩道を歩く*
蓮田駅からしばらく線路沿いの道を歩き、そこから一旦、森が残っている住宅地の間を抜けると、目の前に黄金色の水田地帯が広がりました。半分ぐらいは稲刈りが終わっていました。この風景に間に合ってよかったです。
その水田の先の見沼代用水沿いに遊歩道があります。
途中で木陰にベンチがありました。
歩き出してまだ20分ほどですが、ここで休憩することにしました。
目の前の稲穂と、その向こうに見える森と昔ながらの大きな屋根の農家。そして東側にはJR東北本線で、列車や貨物が通っています。
ここが、あの車窓から見えた遊歩道でした。
気温は32度もありましたが、遊歩道の木陰は風が涼しく、どこからか金木犀の香りがしました。
稲穂の黄金色と、柿の色がまた美しい色合いです。
農作業をされている人のすぐそばに、白鷺が何羽もいます。逃げないものですね。
あぜ道には鮮やかに彼岸花が咲いています。
ツルボは見つけられませんでしたが、用意したおにぎりを食べながら、ちょっと泣きそうになる風景を眺めました。
*瓦葺懸渡井(懸樋)跡を訪ねる*
北のほうから流れてくる見沼代用水が、 JRの線路に近づいたところでぐいと西へと向きを変えます。
それに沿って歩くと、少し低くなったような場所に、地図で見つけた場所がありました。
誰もいないだろうと思っていたのですが、そばのベンチに数人いて、大きな説明板の前では何やら説明している人がいました。
ここが瓦葺懸渡井(懸樋)跡で、手前に「瓦葺調整堰」と表示された水資源機構の施設がありました。
綾瀬川と見沼代用水を交差させ、さらにその先で見沼代用水西縁と東縁へと分岐していました。
訪ねてみて初めて、ここが分岐点だったのだと理解できました。
昔の煉瓦が残っているのも見えました。
近くには「利根大堰から33km」という表示がありました。
あの利根大堰のあたりからはるばる水が運ばれてくる水路が江戸時代に造られ、現代までこの水田の風景が続いているのですから、ただただ圧倒されます。
*上尾市瓦葺*
ところで「瓦葺」が最初読めませんでした。検索したら「かわらぶき」そのものでよかったのですが、瓦葺(上尾)の「歴史」がありました。
見沼代用水の開削の際に上瓦葺村には見沼通船の瓦葺河岸と称される河岸場が設けられ、江戸に物資を運ぶ拠点となっていた。
1728年(享保13年)3月ー見沼代用水が完成し通水が開始される。綾瀬川との交差地点には瓦葺懸樋(現、瓦葺伏越)が設置される。
1885年(明治18年)7月16日ー地区内に日本鉄道第二区線(後の東北本線)が開通する。この期を境に機関車からの飛び火による沿線火災や小火が多発するようになり、瓦葺も1911年(明治44年)4月1日に農家を全焼させる火災が相次ぐなど例外ではなかった。
1908年(明治41年)ー地内の瓦葺懸樋が上部工が鉄製、下部工が煉瓦製に改修される。
1910年(明治43年)8月ー地内の見沼代用水や綾瀬川流域で洪水被害(所謂明治43年の大水害)が発生する。水田が広範囲に冠水し、瓦葺懸樋が破壊される。
1961年(昭和36年)ー地内の瓦葺懸樋が伏越に改造される。
1991年(平成3年)ー埼玉合口二期事業により地内の見沼代用水(東縁・西縁)が改修され、それによって生じた土地に「緑のヘルシーロード」が整備される。
車窓から見つけた風景と地図で見つけた場所に、こんな歴史があったとは。
何度読んでもなかなか頭に入らなかった見沼代用水の全体像が、実際に歩くことで少し理解できるようになりました。
そして、数百年前からの歴史を現代の風景に重ね合わせながら生きているあの説明板の前に集まっていらっしゃった方々のような人によって、大事な何かが引き継がれていくのだろうと思いました。
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