水の神様を訪ねる 53 伊奈町から上尾まで氷川神社を訪ねる

散歩の記録が2ヶ月遅れになっていますが、昨年9月下旬に見沼溜井の北端だったあたりを歩き、その伊奈町の周辺にある他の氷川神社を11月上旬に訪ねました。

 

ニューシャトル羽貫駅で下車し、水田地帯の真ん中にある川沿いを歩いてから、伊奈中央駅まで歩いてみました。

最初の氷川神社伊奈中央駅のそばにあるのですが、少し遠回りをしたのは、地図ではその川が水田地帯の途中で直角に西側へ曲がり、そこで忽然と水色の線が消失しているからです。

水源を見ることができるかもしれないと、歩いて見ました。

 

羽貫駅から南西へと1kmほど歩くと、下り坂になり川に沿って水田地帯が広がっていました。

地図にのっていた通り、用水路が直角に曲がり、そのさきに少しだけ小高い場所があって、そこから用水路が始まっていました。

実際には暗渠の水路がまだ先にあるようで、水源というわけではなさそうでしたが、水路の中に澄んだ水が流れ、水草が揺れて美しい場所でした。

 

満足してその川の左岸側をまた上り、人参畑や果樹園のそばをのんびりと歩いて伊奈中央駅に向かいました。その途中に、伊奈町配水場の大きなタンクがありました。どこから取水しているのでしょう。

ニューシャトルと新幹線の高架橋をくぐると、その先には雨水貯水場がありました。先ほどの川からは結構上ったように見えたのですが、浸水する可能性があるのでしょうか。

 

*伊奈中央の氷川神社

 

その先の道も少し上り坂で、上り切ったところの交差点を東へと歩くと、伊奈町立図書館の近くに氷川神社があります。

鬱蒼とした森の中で、「伊奈町氷川神社社叢ふるさとの森」という昭和61年に書かれた説明板がありました。

 身近な緑が、姿を消しつつある中で、貴重な緑を私達の手で守り、次代に伝えようと、この社叢が、「ふるさとの森」に指定されました。

 この神社の建立は古く、境内の石碑には寶治二年(一二四八年)の記述があり、小室郷(こむろごう)八ヶ村の総鎮守として、伊奈町最古の神社です。

 境内には、杉、松の古木が何本もあり、神社の風格を醸し出しています。また、杉並木の参道は隣接の建正寺まで続いており、境内のみどりとあいまって、緑の空間となっています。

 林相としては、スギ、ヒノキなどで構成されています。

     埼玉県

 

こうした説明板は、時代の大事な記録ですね。

樹木の中の遊歩道のような参道が、隣の氷川児童公園まで続いていました。

 

神社の由来がありました。

 この神社は、鎌倉時代の宝治二年(一二四八年)に勧請され、当時は素戔嗚尊を祀る男体宮と稲田姫命を祀る女体宮の二社であったがいつの間にか合祀されたと伝えられている。その後、南北朝時代の応安三年(一三七〇年)に社殿が再建され、江戸時代には小室郷八ヶ村(別所、小室宿、本(ほん)、柄(がら)、柴、小貝戸、中荻、丸山)の総鎮守となる。明治六年(一八七三年)には村社となり、明治四十年(一九〇七年)から四十三年(一九一〇年)にかけては旧小室村内の三十九の社が合祀され、昭和十九年(一九四四年)郷社に昇格した。原社殿は、昭和五十二年に完成している。

 江戸時代には大河内氏や松平伊豆守信綱(老中、忍・川越城主)に由縁が深く、両氏によって度々修復がなされている。

 境内にある天神社は、「知恵伊豆」と称されていた松平信綱にちなみ「伊豆天神」と呼ばれ、広く親しまれてきた。

 毎年、四月十五日と十一月二十三日の例祭のほか、十二月二十二日には「火渡り」が行われる。これは松薪を燃やし、その上を素足で渡ることにより、無病息災、鎮火防盗を祈願するものである。

 

「水の神様」とも少し違う氷川神社のようです。

 

境内の北側へと向かうと、そこは、北側の地域からは一段高い場所になり、そこから北側へと下り坂になっていました。

別の川の河岸段丘の上のような場所でした。

 

 

*芝川右岸の氷川神社

 

この日は、ここから先ほどの川を渡り、さらに芝川を渡ったところにある氷川神社を訪ねて上尾駅まで歩く予定でした。

伊奈町立図書館の前にコミュニティバスのバス停があり、5分ほどで志久駅方面へのバスが来るようです。

少し疲れてきたし、日没までの時間を考えてそれに乗ってみました。

 

バスはぐるりと田園地帯や住宅地を周り、前回、瓦葺懸樋跡を訪ねたあとに歩いた遊水池のそばを通りました。あの時は背の高い葦でどんな場所か見えなかったのですが、反対側からみると水の溜まっていない広大な貯水用池が見えました。

 

途中、昔からの農家と思われる広い敷地のお屋敷のような家もありました。

志久駅を越えて、埼玉県立がんセンター前で下車しました。ホテルのようにおしゃれな建物の裏へと周り、先ほどの川を越えて芝川の近くまでただひたすら歩きます。

 

住宅街から突如として三井金属の工場地帯が現れ、その先に芝川が流れていています。

その少し手前の鎌倉街道沿いに二つ目の氷川神社がありました。

 上尾は既に戦国期に郷村名として見え、元亀・天正のころ(一五七〇〜九二)のものと推定される旦那引付注文写(熊野那智大社書)に「足立郷あけをの郷原宿」と記されている。当社の鎮座地はこの辺りでは一番の高台で、かつての上尾三か村の中心地にあり、小字名を二ツ宮という。

 その創建は、当地一帯を上尾郷と称していた中世にまでさかのぼることが推測され、『風土記稿』上尾村の項には「氷川社 上尾三か村の鎮守なり、男体女体の両社にて、間に道を隔てるならびたてり、村内遍照院の持」と記されている。これに見えるように、当社は元来男体・女体の両社からなり、小字名二ツ宮の由来ともなった。

 明治初年の神社分離を経て、男体・女体の両社は、いずれも氷川社と称し、明治六年に村社に列した。しかし、明治四十二年に女体社を継承した氷川社の方が隣村の上尾宿の鍬神社に合祀される事態となった。鍬神社は社名を氷川鍬神社に改め、村社に列した。一方、当地では男体社を継承した氷川社が一社だけとなり、一宮の氷川神社に倣った古くからの祭祀形態は変容を余儀なくされたのである。

 当社の『明細帳』によると、いつのころか字二ツ宮の神明社末社八雲社・稲荷社が合祀され、明治四十年には上尾下字上原の無格社天神社、字下原の無格社稲荷社、字榎戸の無格社稲荷社・厳島社、翌四十一年には上尾村字北本村の無格社稲荷社がいずれも合祀された。

 

いろいろな神社の御由緒を読むようになってだいぶ読み慣れてきたつもりでしたが、「無格社」初めて見ました。神社の歴史も膨大な言葉と概念がありますね。

 

神社の境内のそばに湧き水があるようで、参道の入り口のあたりから水音が聞こえ、それが水路になって芝川へと流れ込んでいました。

一気に疲れが吹き飛びました。

 

芝川まであまり高低差を感じなかったのは、「排水路とされて田圃の最も低いところが開削されて、現在の芝川の河道がつくられた」(Wikipedia「芝川」「歴史」)のためでしょうか。

 

 

あたりが薄暗くなってきました。ここから30分ほど歩いて上尾駅に着いた時には、空腹と疲労感でちょっと朦朧としてきましたが、開いているお店もなくそのまま湘南新宿ラインに乗りました。

 

乗ってから、もう一つ氷川神社を訪ねる計画があったことを思い出しました。

上尾駅の目の前にある鍬上尾神社です。

芝川を渡る時には覚えていたのに、駅に着いた時には空腹と疲労で意識が飛んでしまったのでした。

 

 

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