行間を読む 107 人造石と服部長七

水土里ネット「明治用水歴史年表」の「1900   明治33    旧頭首工(人造石)をつくる工事をはじめる」という項目に、ふと目が止まりました。昨日の記事で紹介した「豊田市渡刈町 水源ダム・頭首工の今昔写真集」の「明治42年完成の石造り堰堤風景」の写真をみると、「石造り」と言っても石を積み重ねたものではなく、コンクリートのように見えます。

 

「人造石」はコンクリートのことなのかなと思ったのですが、明治用水の「関連項目」に書かれている「服部長七」を読んだら、全く違っていました。

 

 

*人造石工法*

 

服部長七の「人造石工法」にセメントとの違いが書かれています。

人造石工法が用いられた明治期において、セメントはすでに輸入されていたものの高価であり大規模工事に使用するのは経済的に難しかった。また当時のセメントは水中ではうまく固まらなかったことから、治水・護岸といった分野の工事には用いることが難しい状況であった。これに対して長七の人造石工法は用いる材料が安価に大量に入手可能であったこと、前述の欠点により水中においてはむしろセメントを用いるより強固な構築物を築くことができた。また、関東大震災当時、煉瓦積みの建築物は壊滅的な打撃を受けたのに対し、人造石構造物の損害は軽微であった。

 

一世紀前はまだ、「当時のセメントは水中ではうまく固まらなかったことから、治水・護岸といった分野の工事には用いることが難しい」時代だったのですね。

 

 

*経歴からいろいろとつながる*

 

服部長七の経歴を読むと、今までの散歩といろいろとつながりました。

まず、「人造石」を編み出すきっかけが神田上水であったことが書かれていました。

(前略)その後酢・菓子・酒の製造を営んだ後上京し、日本橋で饅頭屋を開業し繁盛したとされる。しかし雨の日になると饅頭屋で用いる水道水の汚れがひどくなるため、自ら小石川の水源地を見に行き、その不衛生さを見てからは上水道の改良を志すようになった。 

 

1876年(明治9年)に人造石工法を編み出した後、さまざまな治水・護岸工事に関係していたようです。

1881年明治14年)には人造石工法の海岸堤防工事への導入試行として、自ら高浜(愛知県)の服部新田開発を手がけ成功した。その後岡山県佐賀県の新田開発築堤工事で成果を上げ、1884年明治17年)からは広島県宇品港(2013年現在広島港の一部)の工事を請け負う。(中略)

その後も長七は台湾基隆港改築工事、四日市港築港、明治用水取水口堰堤工事など数々の治水・護岸工事を手がけたが、コンクリート工法の普及など環境の変化もあったことから1904年(明治37年)に事業から引退し、氏子として再興に努めていた岩津天満宮(愛知県岡崎市)に間借りする形で隠居した。 

 

 

明治用水取水口の堰堤は、ちょうどこの人造石からコンクリートへと驚異的に変化する時代の最中だったことになります。

冒頭の写真は1909年(明治42年)ですが、どちらも使われていたのでしょうか、それとも人造石工法だけだったのでしょうか。

 

 

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