稲波の干拓地内の道から霞ヶ浦の見える国道125号線から古渡(ふっと)橋を渡るまでは車やサイクリング車が多い道で、この先狭い歩道を歩くのはちょっと怖いなと思っていると、途中の角をほとんどの自動車が曲がっていなくなりました。地図で確認するとその先の県道206号線への抜け道があるようです。
みなさん、どこへ行くのでしょう。
車がほとんど通らなくなった国道125号線は、昔からの街道を思わせる雰囲気でした。
12時48分に古渡バス停に到着したのでバスが来るまで27分ありますが、周囲には腰掛ける場所がなさそうです。
「古渡」、名前からしてどんな街か気になったのですが、江戸崎から休むことなく歩いてきたので周囲を散策する余力がなく、立ったままそばの梅の木のつぼみを眺めて過ごしました。
「古渡」を検索してみると、「こわたり」「ふるわたり」「こと」などさまざまな読み方があるようです。
「こわたり」だと「古く外国から渡ってきた品物」(コトバンク、日本国語大辞典)、「こと」だと「ふるびた渡し場」(同)で、読み方が違うと意味も違うようですが、「ふっと」の説明は見つかりませんでした。
場所的には霞ヶ浦に面した渡し場のように想像したのですが。
*バスに乗って中神バス停で途中下車*
13時17分、佐倉行きのバスが到着しました。ここから国道125号線沿いにバスは走り、その名も「幸田(こうだ)」という利根川左岸の水田地帯のあたりで東へと曲がってしばらくすると新利根川沿いに水田地帯を走って、また南へとぐいと国道が曲がるとあたりに「水神」という地名があります。
最初、水神地区を歩いてみたいと思ったのですが、その手前の中神バス停のそばに稲敷市立歴史民族資料館があることに気づき、訪ねてみることにしました。
ところで国道125号はどこからどこまで行くのかと思ったら、なんと「千葉県香取市から茨城県を経由して、埼玉県熊谷市に至る」とあります。昨年12月に訪ねたあの利根川中流のあたりまでつながる道の歴史はどんなことがあったのでしょう。
バスは、山間部のような場所へと入って行きました。国道ぞいに細長く集落があり、黒い瓦屋根の立派な日本家屋があちこちに見えました。どんな歴史や生活があった地域なのでしょう。
途中、「十三塚、殉職」という文字が見えました。帰宅したら調べてみることにしましょう。
華やかなお寺や神社があり、長い歴史があったことを感じさせる風景が続きます。
左折して下り坂になると、新しく開けた住宅地が増え、また下ると目の前に水田地帯が見えて幸田地区になりました。「福田」「町田」と田がつく地名が近接しています。
用水路のような川のそばを走ると、しばらくすると右手から悠々と流れる新利根川が近づき、そのすぐそばを走りました。
まっすぐ幅の広い川が見渡す限りの水田地帯に通っています。
「新利根川」、てっきり近代の水路かと思ったら江戸時代の「新川」でした。
印旛沼・手賀沼干拓の際、利根川の水位を下げる為に江戸時代寛文年間に付け替えた利根川の新川である。開削作業は1662年(寛文2年)に起工、上流側(押付側)から工事が進められ1666年(寛文6年)に竣工した。しかし流路が直線になり、また水深が浅い為流速が速いことから水運のために使われるようになっただけでなく、流域の沼地が水害を被るようになったため、竣工から僅か3年後の1669年(寛文10年)に新たに小貝川に水門を設け沿岸の海岸用水路として使われるようになった。
以来、360年ほどの間、小貝川から取水した水が流れ続けているようです。
なんだかまた圧倒される風景のど真ん中に中神バス停があり、下車しました。
*おまけ*
「寛文年間(1661~1673年)」を散歩や遠出をするようになってよく見かけるようになりました。
過去の記事の中でもこんなことを書き留めていました。
そのさらに一世紀後「1772年(享保7年)新田開発奨励策」が奨励され、新田開発が本格化した(Wikipedia、見沼代用水より)へとつながっていくことが、おぼろげながら私の中の年表に整理されてきました。
「散歩をする」まとめはこちら。