三島駅で下車し、下土狩駅を目指したのは、その下土狩駅の西側数百メートルのところにある貯水池らしき場所をみてみたいと思ったからでした。
そこまでの道を探しているときに、「鮎壺の滝」を見つけました。そこが今回の散歩の最初の目的地です。
下土狩駅の北側で御殿場線の踏切を渡り、黄瀬川へ向かって下り坂になった途中に用水路がありました。
本宿用水
慶長8年(1603)、当時の領主、興国寺城主 天野三郎兵衛康景が黄瀬川から取水して本宿耕地へ流下させるようにした灌漑用水路で、トンネルだけでも長さが280間(508メートル)あった。ここはそのトンネルの入り口である。
その後、安政の大地震(1854)が起こり、これは陥没大破した。そこで領主に懇願して金230両を下げ渡してもらい、また、借金をしたうえ、下土狩村にも再びトンネルを掘る了解を求めた。こうした技術面・財政面での困難を克服し、新規掘り返した結果、383間(696メートル)のトンネルになっている。
黄瀬川左岸への江戸時代からの用水路が現在もあり、この一枚の説明板でその歴史を知ることができるなんて、幸先の良い散歩のスタートです。
*鮎壺の滝*
次第に水の音が大きくなってきました。
滝を眺められるように高台に造られた公園から、溶岩石の織りなす壮大な風景の中、轟々と水が落ちている滝が見えました。
新幹線の車窓からは、三島駅を通過した直後にあっという間に通過してしまう黄瀬川ですが、その上流わずか数百メートルの場所に、こんなに美しい場所があったとはしりませんでした。
「富士山の溶岩がつくった鮎壺の滝」
およそ10万年前、本州と伊豆との境界付近に富士山が誕生しました。約1万年前の噴火では大量の溶岩が黄瀬川に沿って流れ下り、柿田川(清水町)付近にまで到達しました。三島溶岩と呼ばれるこの溶岩の亀裂やすき間は、地下水の通り道になり、各地に豊富な湧水をもたらしています。
鮎壺の滝は、三島溶岩の南西端にかかる滝です。黄瀬川の流れによって、溶岩流の下にあった柔らかい土壌(愛鷹(あしたか)ローム層)が先に侵食され、残された固い溶岩流が滝をつくったのです。
滝の正面にかかるつり橋からは、三島溶岩の断面と、そこを落ちる何本もの滝がつくり出す迫力ある景色を楽しむことができます。
「伊豆半島ユネスコ世界ジオパーク」の一部として説明がありました。
「富士山が誕生」したとか、水の流れ方や地理とか、江戸時代の用水路とか、自分が暮らす場所を知ることができるなんてなんと落ち着いた街だろうと思いました。
そのつり橋を渡りながら正面からの滝も圧巻です。
反対側には広い公園があり、しばし座って滝と黄瀬川の流れを独り占めしました。
*黄瀬川右岸を歩き、門池公園へ*
公園を出ると、黄瀬川右岸の険しい河岸段丘になりましたが、段丘を利用しながら住宅が立ち並んでいます。
南側を向くと、いつもは車窓から見ていた三島駅の新幹線車両基地の先にある高架に、新幹線が停まっているのが見えました。その反対側の風景がこんなに水路が豊かな場所だったのかと驚きます。
段丘の境には用水路が張り巡らされていて、水路の上に水路が通っていたり、分水される場所があります。あちこちから絶え間無く水の音が聞こえてくる場所でした。
歩いてみないとわからないですね。
一本の大きな川にでました。それをたどると目指す門池公園です。
公園の手前に墓地があり、そこに記念碑と書かれた石碑がありました。
この墓地は市街地の水害対策の一環として昭和43年から始められた新放水路開削事業に伴い該地より移転したものである。先祖伝来の墓地を移転するは関係者にとって誠に忍び難いものがあったにもかかわらず、本事業の趣旨を良く理解し関係者一同涙をのんでこの事業に協力した。しかし墓地移転先に難渋し7年有余の歳月を費やしこの間関係者の労苦は言語に絶するものがあった。幸いにも横田興一氏の深いご理解とご厚意によりこの良き地をご提供頂き昭和51年3月この地に移転できた。本墓地建設にあたりご尽力頂いた多くの方々に深く感謝の誠をささげるとともに霊の永久に安らかならんことを祈る。
川ではなく門池からの放水路で、その建設のために墓地も移転することになったことの記録のようです。
私が小学生だった頃の、このあたりの水害の歴史はどんなことがあったのでしょうか。
墓地の向こうには広い貯水池が広がっていました。周囲を散歩する人がちらほらいました。
門池の南側に、説明板がありました。
牧堰門池(まきぜきかどいけ)用水
門池は、古くは自然の簡単な溜池として隣接する村々の灌漑用水に用いられていたと思われるが、江戸時代に入り正保2年(1645)旱損緩和の為、黄瀬川を鮎壺の上流約200メートルほどの地点で堰き止めてつくった牧堰を本用水とし、門池からの水を補助用水とする牧堰門池用水が成立した。その後、愛鷹南東麓の平坦地の稲作農業に欠くことのできない灌漑用水を提供し、農民生活を支えてきたが大正12年(1923)の関東大震災以降、黄瀬川の流量が激減し、しかも大正13年以降には旱害が相ついだ為、新たに牧堰用水不足分を門池貯水池によって補充すべく、牧堰用水路から導水路420メートルのトンネルを開さくした。これにより牧堰門池用水は、灌漑用水として従来にも増して大きな役割を果たすこととなった。
黄瀬川左岸側は本宿用水、右岸側はこの牧堰門池用水があること、そこまでわかりました。
*沼津市明治史料館を目指す*
ここからは西へと蛇行した道をたどって、いつもは新幹線の車窓から見ている場所を実際に歩いて、通過している新幹線を見ようというものです。
ちょうどその蛇行した道が終わるところに、沼津市明治史料館があったので立ち寄ることにしました。
8時45分に門池公園を出て、緩やかな下り坂になっている県道22号線を道なりに歩きました。
国道246号バイパスとの交差点を過ぎると、昔からの大きなお寺や屋敷が多くなりました。新幹線の高架橋が近づいたり離れたりしながらの道です。
ヒューっと通過する新幹線の姿と音に、元気づけられて歩きました。
途中の交差点に、石像が並んだ場所がありました。
塔の辻の石塔群
根方街道沿いに、道標「根方街道」の石柱、馬頭観音、巡拝塔等の古い石塔が一五基東西に並んでいる貴重な聖地であります。
自然石の大黒天(農産・福徳の神)は、江戸後期に東間門村で私塾を開いた金岡の教育の先駆者、西尾麟角(号、馬門道人)翁の揮毫です。
中央の長身の碑塔は、寛文四年(一六六四年、今から三五〇年前)に建立されたもので、金岡地区では最古の碑塔といわれ、金岡村誌の口碑に「古雅なる碑塔一基あり、その高きこと約六尺にして風雅なり」と記されています。
この碑(いしぶみ)には、当時の村の人々がきびしい生活にもかからわず、お互いに浄財を出し合ってこの碑を建て、自分たちみんなの暮らしの向上や幸せを祈願し、またこの辻を往来する村人や旅人の安全と多幸を祈る心が刻まれているのです。
そして天神ケ尾や近在五ヶ村の人々六十二名の名も刻まれています。
これらの碑塔に手を合わせる時、昔から今日に至るまで、この尊い碑が郷土(ふるさと)の歴史として大切に守られ、受け継がれてきたことを思い知らされる塔の辻です。
ふらりと立ち寄ったのですが、「自分たちみんなの暮らしの向上や幸せを祈願し、またこの辻を往来する村人や旅人の安全と多幸を祈る心が刻まれている」、そんな歴史をあちこちに感じる長泉町から沼津市までの街並みでした。
おそらく30分ほどで歩ける距離でしたが、ふらりと立ち寄って説明を読みながら歩いたので、一時間ほどかかって明治史料館に到着しました。
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