記録のあれこれ 168 「高梁川東西用水組合設立100周年記念」

計画にはなかった高梁川河口の地域を守る水の神様に出会えて、また歩く元気が出て来ました。

神社のすぐそばから酒津配水池と東西用水酒津樋門のあたりが広い公園になっています。平日というのに、けっこう散策されている方に出会いました。

 

2018年に初めて訪ねたときにはまだ散歩に慣れていなくてちょっと歩くと疲れていたので、樋門のあたりと水路沿いを少し歩いただけで満足して帰りました。

今回はぐるりと池のまわりを歩き、さらに北側からの東へ向かう水路沿いに倉敷駅の付近まで歩く予定です。

 

数年前はあちこちの記念碑をじっくりと読むことが少なくてその場所を見ることができれば満足していましたが、今は帰宅してから記念碑に書かれていたことを読みブログに記録を残すようになりました。

 

 

高梁川東西用水組合*

 

2018年に訪ねたきっかけは、大きなため池のような場所のそばに「高梁川東西用水組合」と書かれていたのを地図で見つけたからでした。

 

公園に入ると黒っぽい石碑がありました。

 

高梁川東西用水組合設立100周年記念

 

現在の高梁川は明治時代まで東高梁川と西高梁川に分岐しており、洪水を繰り返して来ましたが、こうした状況を改善するため、明治四十四年から大正十四年にかけて高梁川改修工事が実施され、東西に分岐した河川が統一されました。これに併せて東西の高梁川にあった十一の農業用取水樋門を統合し、酒津取水樋門をはじめとする取水施設を建設し、大正五年にその管理運営を目的とした高梁川東西用水組合が設立され、以降はそれまで旱ばつの際に発生していた取水樋門ごとの激しい水争いも無くなり、安定的な農業用水の供給に寄与して来ました。今後も高梁川東西用水組合が地域農業の振興のみならず、地域一体性のいわば象徴としての役割も担い続けていくことを祈念してこの碑を建立します。

 

平成二十八年十一月吉日

高梁川東西用水組合管理者    倉敷市長 伊東香織

 

1925年(大正14)に高梁川改修工事が終わってから93年後、そしてこの碑が建てられたその2年後に、このすぐ上流で50年に一度の水害が起きたのでした。

 

酒津配水池案内図のそばにこの組合の案内も書かれていました。

高梁川東西用水組合沿革

 私達の住む倉敷の町は、江戸時代から明治時代の終わりまで約300年間にわたって干拓され、この土地を守るための築堤により川ができ、高梁川が運ぶ多量の土砂により広大な土地が形成されていった。

 しかしながら、川の堤防は簡単なものだったので洪水のたびに大きな被害を受けていた。そこで明治44年(1911年)に高梁川改修工事が国の事業として行われることになり、それに伴い大正5年(1916年)に高梁川東西用水組合が19町村で設立され、14年の歳月を経て大正14年(1925年)に完成した。当時干拓地の用水は高梁川の両岸にあった11箇所の樋門から取水していたが、取水は思うに任せず干ばつ時には水争いが絶えずこれを解消するため、河川改修を機にこれらの樋門を統合し、農業用水を経済的、公平に配分することを目的として、酒津地点に取水樋門と配水池をつくることになった。この大事業の完成によって洪水被害や水争いもなくなり、倉敷市発展の基盤が完成し、現在でも1市1町に安定した農業用水を供給しているものである。

酒津配水池面積 31ha

   受益面積 約3,000ha(倉敷市早島町、)

   取水量 代かき期 14,170㎥/秒 普通期 9,226㎥/秒 非かんがい期 2,410㎥/秒

        高梁川東西用水組合管理者

 

「この大事業によって洪水被害や水争いもなくなり」

まさに祖父がこの時代の当事者だったようです。生きている間にもっと話を聞いておきたかったけれど、関心もなく過ぎてしまったことが悔やまれます。

 

 

公園の少し高くなった場所に見上げるような大きな古い石碑が建っていました。

前回来た時にも写真を撮ったような記憶もあるのですが、改めて読みました。

用水工事竣功記念碑

 

高梁川改修ノ議其ノ起ルヤ頗(すこぶ)ル遠シ而(しか)シテ明治十三年及ビ同十七年ニ於ケル惨憺(さんたん)タル災害二鑑ミル○(読めず)アリ〇〇(読めず)内務卿二請願セル以來陳情懇請殆ンド絶エルコトナカリシガ更ニ同二十五六両年に於ケル未曾有ノ惨害ニ於テ人畜ノ死傷耕宅地ノ荒廃激甚テ極ムルヤ一層改修ノ必要ヲ感ジ熱心當局ニ陳情セル結果同三十九年ニ至リ改修ノ議決定セラレ○(「玄」二つで「ここ」)ニ本川ノ根本的治水英確立シ翌年四十年工ヲ起スニ至レリ改修工事ハ都窪郡〇〇(読めず)村古地ニ於いテ西派川ヲ締切リ更二同郡中洲村酒津ニ至ツテ東派川ヲ遮リ之ヲ西派川下流ニ導キ東西合一ノ河身ヲ作ルベキ計畫(けいかく)タリ而(しか)シテ殊ニ本川ノ平水量タル甚ダ多カラザルニ湛井(たたい)十二箇所郷堰に於テ其ノ水路殆ンド遮断セラレ下流ハ夏季常ニ涸渇ヲ招キ此年一大貯水池ヲ作ツテ旱天ニ備ヘ河水ノ全部ニ堰堤ニ檬(ム)ツテ配水池ニ導キ之ヲ各用水路ニ配水スルコトトシ之ガ大筋ヲ期スベキ為メ大正五年従来個個〇(読めず)立セル用水組合ヲ合一シテ高梁川東西用水組合ヲ設立スルニ至リシガ之ガ調査ト組合ノ協定トハ容易ニ業ニ非ズ前後實ニ七年ヲ費セリ即チ或ハ水利ノ優越権(権の旧字)ヲ主張スルアリ或ハ融和ノ不可能ニ唱フルアリ共同施設ノ福利ヲ體験セル今日ヨリ看レバ恰(あたか)モ一夢ニ夢シ〇(読めず)雖(いえど)モ當時ニ在ツテハ彼此陳辨シテ譲ル〇〇(読めず)カリシガ幸ニシテ融和協調ヲ遂ゲ合同ノ目的貫徹セラレタルハ實ニ地方百年ノ幸慶ナリトス工事ハ組合成立ノ年ヨリ大正九年ニ至ル五箇年継續ノ事業トシ當初總工費九十萬圓ノ豫算ナリシガ歐洲戰亂ノ影響等ノ為メ経費ノ膨脹ヲ来タシ遂ニ二百七十九萬四千六百六十二圓ニ増額シ内百九十六萬五千四百八十六圓ノ國庫補助ヲ得且改修本工事ニ直接関係アル工事ハ内務省ニ於テ施工シ其ノ他ノ工事及ビ用地ノ買収ハ之ヲ組合に於テ處理スルコトトナリシガ工費ノ補充乃至本工事トノ連絡上工程自ラ遷延セシモ遂ニ今〇(読めず)大正十四年三月竣工ヲ告グルニ至レリ〇(「玄」二つで「ここ」)ニ組合ノ成立ニ關シ熱心盡瘁(じんすい)セル時ノ知事笠井信一君ノ功績ヲ記念センガ為メ特ニ堰堤ニ命名スルニ笠井堰ヲ以テシ又〇(読めず)工事ニ努力盡瘁セル諸氏ノ芳名ヲ碑陰(ひいん)ニ勒シテ其ノ功勞ヲ永遠ニ傳フルコトトセリ聊(いささ)カ之ガ終始ヲ録シ以テ後代ニ傳フ

     髙梁川東西用水組合管理者岡山縣知事大海原重蔵識

 

(ふりがなは引用者による)

 

どうやら1880年(明治13)と1884年(明治17)の水害によって高梁川改修工事への陳情が始まり、1892年(明治25)から1893年(明治26)の「未曾有の惨害」がその動きを加速したようですが、それぞれの地域の調整に時間がかかりようやく1916年(大正5)に東西用水組合ができ、1925年(大正14)に工事竣功に至ったようです。

 

私の祖父が生まれる前から陳情が始まり、改修工事が終わったのがちょうど私の父が生まれた年ですから気がとおくなりますね。

 

それでも不可能と思われていた「融和協調を遂げ」「百年の幸慶を成す」とあり、土木技術の発展だけでなく、やはり水争いの時代を終わらせる社会になっていった明治時代というのは「人類の為」という概念をそれこそ人類が初めて得た時代だったのだという思いがまた強くなりました。

 

 

*おまけ*

 

こうした石碑の碑文をブログに転記するのに、ネットの漢和辞典を使いながら検索するのですが短いものでもあっという間に半日ぐらい過ぎています。

昔の人は数多くしかも難解な漢字を使っていたことに驚くとともに、どれだけの人がこの碑文を読んで理解できたのだろうと気になります。

 

現代では高校まで履修すれば辞書を使いながらこうした古文・漢文をなんとか読むことができるのですから、これもまた驚異的に変化した時代であることを石碑の前で立ちすくむのです。

少しずつ、誰もが教育を受ける機会がある社会にしてくださった方々がいるからこそですね。

 

偉そうに毎日ブログを書いていますが、これもまた1世紀ほど前の人たちが「誰もが読み書きできるように」という願いが叶うように社会を変えてくれたからだと思えるようになりました。

 

 

 

 

「記録のあれこれ」まとめはこちら