どこを歩くか計画を立てていた頃、門池公園から県道22号線の蛇行した道をたどると、国道1号線と交わるところに沼津市明治史料館を見つけました。
「なぜ明治なのだろう」、明治時代に特化した史料館なのかなとあまり細かいことは調べずに立ち寄ることにしました。
沼津市には、5年前に沼津港深海水族館、2年前には狩野川放水路を訪ねました。
真冬でも陽光が暖かく、海に向かって広々して落ち着いた街でした。
*「昔をしのぶものは何ひとつ残っていない」*
沼津市明治史料館は、おしゃれなレンガ風の建物でした。
門池からここまでの間にも、たくさんの説明板でこの地域のことを学べるようになっていましたから、どんなに歴史遺産が残っている街なのだろうと思いながら入館すると、最初の方でこんな説明がありました。
幕末・明治と現在の沼津
幕末・明治以来、この沼津でもたくさんの出来事があり、大勢の人々がその中を生き抜いてきました。これらの歴史は、私たちの郷土に深く刻み込まれています。
市街地を例に挙げれば、現在の沼津駅の南にはかつて沼津城があり、そこには沼津兵学校の校舎や明治の諸官庁・学校などが建ち並んでいたのです。しかし、現在ここには昔をしのぶものは何ひとつ残っていない状況です。
このように変貌激しい今日の沼津ですが、幕末・明治の面影は、いわゆる名所・旧跡以外にも、町外れの小さな神社や寺院、学校の校庭の片すみ、農村や漁村の旧家などにも意外に残っているかもしれません。また、貴重な史料や文化財からそれをうかがい知ることもひとつの方法でしょうし、おじいさんやおばあさんも歴史の生き証人です。
私たちの祖先の血と汗が染み込んだ郷土沼津の姿を見つめ直してみましょう。思わぬところで何かを発見できるかもしれません。
滝や用水路、移転した墓地の石碑、あるいは辻に残る石そして蛇行する道と並走する新幹線、もうそれだけでたくさんの歴史を感じる街です。
直前に訪れた門池用水について書かれた「牧堰・門池用水 水の恵みと人びとのくらし」という冊子があり、購入しました。
黄瀬川右岸の牧堰からの門池用水と、左岸側の本宿用水について、江戸時代から現代までの歴史と水争いについてなど、詳しく書かれていました。
そして、このあと訪ねる予定だった場所についてもヒントがありました。
用水路開削と新田開発
近世初期は新田開発が盛んに行われた時期です。慶長7年(1602)には三枚橋城主大久保忠佐(ただすけ)により大岡・金岡・沼津三町の農業用水を確保するために8か村に対して牧堰の工事割りが命ぜらられています。牧堰の築造により大岡とその辺一帯の開発が急速に進むが、流域面積が広いために門池の拡張工事がなされています。香貫では寛永の頃(1624~1644)植田内膳(ないぜん)により狩野川の大滝に堰が築かれ、上・下香貫に用水路がつくられたことに寄って田畑は潤い、また新田開発が進みました。原と吉原の間では、幕府が人家の少ない浮島ヶ原を通行する旅人の安全と、この地域を開発するために遠州の農民たちに移住を進め、一本松・助兵衛・植田など10か村の新田集落がつくられました。
ああ、そういうことだったのかと、パズルが解けるように地形が見えてきました。
「昔をしのぶものは何ひとつ残っていない」
でもこうした記録によって、歴史が目の前に浮かぶように見えてくるものですね。
「記録のあれこれ」まとめはこちら。