東海道新幹線の車窓から見える静岡県の大きな河川というと、富士川、安倍川、大井川そして天竜川があります。
どの川も北側からまっすぐ川幅の広い流れがあるイメージで、長い鉄橋を渡ります。
小学生の頃でしょうか、「越すに越されぬ大井川」という江戸時代の川を越える大変さを知りましたが、「昔は橋がなくて大変だったなあ」ぐらいしか思いつきませんでした。
多摩川でさえ近代的な橋ができたのが1925年(大正14)ですから、1960年代の小学生にとって大きな川に橋があることが当たり前になったのが、わずか40年ほどの歴史だったとは気づいていませんでした。
それどころか、大雨のたびに川は流れを変え村を寸断し、袂を分かつような時代が人類の歴史では最近まであったことも知らないほど、近代の土木技術の恩恵を受けていました。
一つの県内の4本もの大河が流れる静岡県というイメージでしたが、よくよく地図を見ると山側からの小さな流れが洪水地帯や沼地をつくっていたのですから、人が生活するために水を治めるというのは本当に大変ですね。
今回のコースをなんとなく「駿河国」と名付けて記録にしたのですが、駿河とはどういう意味だったのだろうとWikipediaの駿河国の「沿革」を読んでみました。
駿河は当初、須流加(「『和名類聚抄』)、須留可(「東遊駿河舞歌」)、薦河(『駿河国風土記』)などとも表記され、尖川ないし駿馬の如きつまり、山から海に落ちる険しい川の意図を持って命名されたと言われている。富士川の流れが急峻であることに由来するというものである。しかし、富士川の流域は庵原郡、富士郡であり、語源となった駿河郡駿東郷は現在の沼津市大岡付近にある。この川は黄瀬川のことを指すとの指摘がある。
「駿馬の如き」流れがその名前に込められている可能性があったのですね。
西隣の遠江国との境は大井川であった。奈良時代の大井川は、山間を出てから現在より北に折れ、今の栃山川を流れており、その流路が境であった。後世に、大井川の流路変更に従って、駿河国の領域が西に広がった。
「大井川の流路変更」
ああ、また歩いてみたくなる言葉に出会ってしまいました。
駿河の国の水の流れの歴史、まだまだ興味が尽きませんね。
「水のあれこれ」まとめはこちら。