散歩をする  169 修善寺から下田へ

大仁から再び駿豆線に乗り、ふた駅で終点の修善寺に到着です。

修善寺は、小学生の頃に家族で伊豆を回ったことがあるので記憶にある地名です。

そして、10年ほど前まだ母が運転していた頃に、認知症の父と3人で伊豆をドライブしたときにも通りました。車で通ったときには、古い温泉町の印象でしたが、駅は新しく「木造」に見えるようなおしゃれな建物でした。

 

修善寺からふたつ目の目的地の弘道寺までは路線バスを利用しますが、出発まで時間があったので狩野川を見て歩きました。

修善寺では左岸から桂川が合流し、その少し上流では右岸から大見川が合流しています。

桂川に沿って歩いて見たのですが、支流といっても水量は多く、狩野川の合流部に近い河岸の岩肌からも勢いよく滝が落ちていました。

 

狩野川台風では死者337名、行方不明127名というもっとも大きな被害があった地域です。

散歩をした日は晴れていて穏やかな天気でしたから、狩野川も静かに流れていました。

山で大雨が降ると、支流からここへと水が集まるのでしょうか。

 

 

*弘道寺*

 

修善寺から河津行きのバスに乗りました。ここからは狩野川沿いに山へと入っていきます。

10年前に両親とドライブをしたときにはまだ川にそれほど関心がなかったので記憶が薄くなっていましたが、車窓から見える風景に、あの時も狩野川沿いを走ったことが思い出されました。

 

40分ほどすると、「弘道寺入り口」に到着。そこから歩いて数分で、弘道寺があります。

お寺の前には大きな池があり、蓮の葉が風に揺れていました。

この日も30度越えの夏のようなお天気でしたが、風は涼しくて、どこからかふと金木犀の香りが漂ってきました。

 

歩く人もいない静かな集落の中に、お寺があります。

伊豆市観光ガイド」のサイトに弘道寺の説明がありました。

静岡県伊豆市を走る国道414号から一本入ったところに建つ、山号を「天城山」と称し、御本尊として行基作の聖観世音菩薩立像を安置する曹洞宗寺院。福禄寿尊を祀る「伊豆天城七福神」の一つで、伊豆八十八カ所霊場の第2番札所。室町時代に「福寿庵」として創設された後、「景勝院」7世の笑山精眞が改称し開山。1857年に初代米国総領事のタウンゼント・ハリスや通訳のヒューストン他36名が、通商条約締結のため江戸へ向かう途中に宿泊した寺で、当時門前に掲げられた「亜米利加使節泊」の表札や折りたたみ式の床風脚などが今も残る。門前には花菖蒲やハスが咲き、毎年8月10日頃に「天城夏まつり」も催される。 

さらに少し坂道を登ると小学校があり、そこからは富士山も見えました。 

 

大仁の自得院と修善寺の弘道寺、父はどちらのお寺に通ったのだろう。

結局わからないままでしたが、どちらの風景も父が気に入りそうだと思いました。

 

*河津から下田へ*

 

「弘道寺入り口」バス停を通るバスは、河津駅行きがほとんどですがたまに河津駅から下田駅まで行くバスもあるようです。

時間に余裕があったので下田まで足をのばすことにしました。

 

バスは狩野川に沿って天城山へと山の中の道を走ります。

狩野川が次第に細い川になりながらも、あちこちの山肌から狩野川へと水が流れている様子が見えました。

30分ほど走ったあたりでしょうか、天城山トンネルの手前で狩野川は右岸側へと大きく曲がって見えなくなりました。

狩野川水系は、静岡県伊豆市天城山に発し、伊豆半島中央部の大見川などの支流を合わせながら北上し、田方平野に出て、伊豆の国市古奈で狩野川放水路を分流し、さらに箱根山や富士山などを源とする来光川、大場川、柿田川、黄瀬川等を合わせ沼津市において駿河湾に注ぐ、幹線流路延長役46km、流域面積852mの一級河川である。 

 

源流にあたる天城山は、年間降水量が3,000mmを超える多雨地帯であり、豊富な水量と良好な水質により古くから繊維業、製紙業、醸造業等の発展に寄与してきた。特に、天城山の清流を利用したワサビ栽培は、全国一の生産額を誇っている。一方で、標高差が大きく流れが急なことや、下流部で蛇行することもあり、古くから洪水が多発した。

Wikipedia、「狩野川」) 

 

天城山トンネルを出ると、今度は河津駅に向かって下り坂になります。しばらくすると、河津七滝ループ橋をぐるりと回りながら降り、河津桜で有名な河津川沿いに走ると河津駅に到着しました。

そこからは海岸沿いに海を見ながら路線バスは進み、下田駅に到着しました。

 

狩野川のほぼ全域もそして美しい海も見ることができたし、父の記憶を訪ねることができた充実の散歩コースになりました。

 

ところであのループ橋も10年前のドライブで通った記憶があります。

あの時は突如として現れる巨大な橋に、「せっかくの風景が」と思った記憶がありますが、Wikipediaを読みなおしてみるとまた違った思いになります。

かつては山に沿って国道がつづら折りになっていたが、1978年の伊豆大島近海の地震の影響で崩落し山腹の道路が寸断した。その後、通行の利便性と高低差を解消し、地震による土砂崩れの教訓を生かした工法を採用し、1981年(昭和56年)にこのループ橋が生まれた。 

 

今回はさらに、河津から下田まで、海沿いとは別に新たな道路建設が行われていました。

 

「亜米利加使節」が下田に来日した頃は、下田から海沿いに江戸へ行く道はなかったかあっても危険で、天城山を越えて遠回りをしながら江戸へ向かったということでしょうか。

一世紀半ほど前の「道」と、それを自然災害から守ることを想像したらちょっとめまいがしました。

 

 

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