先日、「黄瀬川と本宿用水、そして新幹線」に、三橋利之様からコメントをいただきました。ありがとうございます。
本宿用水を作りましたのは、北條早雲旗揚げの城であります興国寺城の城主"天野廉景"です、箱根用水を作りました友野与衛門は本宿用水を手本にしたと思われます。興国寺城を復元する会
昨年11月に駿河の海と並行に流れる川を訪ねた時に、三島駅で下車し、下土狩(しもとがり)駅から黄瀬川を目指しました。
この時の最初の目的地は黄瀬川の鮎壺の滝から右岸側の門池公園だったのですが、その手前の左岸側に偶然、本宿(ほんじゅく)用水を見つけました。
たしかに長泉町教育委員会の説明板に「興国寺城主 天野三郎兵衛廉景」とありました。自分でブログに記録しておきながら、ほんと、歴史を人物から記憶するのが苦手ですぐに忘れてしまいます。
次に、今年2月に念願の深良用水(箱根用水)を訪ねた時に、本宿用水も少し歩きました。
興国寺城、もしかしたらあのあたりかもしれないと地図を見直してみました。
たしか沼津市明治史料館から新幹線の線路に近いところを歩いて浮島ヶ原、そして岳南鉄道の岳南江尾駅を目指す無謀な計画を考えていた時にみた記憶がありました。
*「緑陰の里・興国寺城を復元する会」より*
そのホームページを早速読んでみました。
緑陰の里とは鎌倉時代の紀行誌「東関紀行」に"浮嶋が原はいずくよりまさみてみゆ、北はふじの麓にて、西東にはるばると長き沼あり。布を引けるがごとし、山の緑 陰を浸して空も水もひとつなり”と記されており、浮島沼に映る逆さ富士をグランドイメージとして、地域活動を推進すべく名付けました。
興国寺城は、浮島沼に伸びた愛鷹山の尾根に北条早雲公が築き、この地より韮山の堀越御所に討ち入り、戦国時代の幕が開いた特筆すべき城であります。
史跡として残っていますのは、最後の城主天野廉景公当時のものであり、廉景公も"義"の人として「徳川実記」はもとより新井白石の「藩翰譜」明治の修身書「幼学綱要」にも載せられており、戦国期の徳川軍団の中で異色の人物であります。
戦国期の黎明期に築城され、戦国時代が終わると共に廃城となった興国寺城の復元をめざし、地域活性化に寄与することが当会の目的です。
「根古屋」という地名にあるその城跡は、南へと少し突き出たような場所です。
東海道新幹線と東海道本線に挟まれた地域は昭和30年ごろまで腰まで浸かるような湿田農耕が行われていた沼地で、その山側にあったお城であったことがつながりました。
その城跡をはさんで北側に東海道新幹線が通っています。次回通過する時にはぜひ、車窓から見逃さないようにしなければ。
そして、そのかつての浮島ヶ原に沿った道も歩いてみたいものです。
いただいたコメントから、深良(箱根)用水も本宿用水もまだまだ知りたいことが出てきました。
用水路や干拓地を見にあちこちに遠出して散歩をするようになって、大分市内のさまざまな歴史の記念碑や説明板あるいはその地域の地理や文化の説明板などの記録がたくさんあることがようやく目に入るようになりました。
素通りしてしまっていた今までは、なんともったいない時間だったのでしょう。
こうした地道な活動によって、その地域の歴史がより正確に記録されていくのですね。
「運動のあれこれ」まとめはこちら。
「城と水」についての記事はこちら。