米のあれこれ 86 大井川左岸の「ザル田」

東海道新幹線で焼津のあたりで並走する国道の橋に「朝比奈川」と書かれていることに、数年前に気づきました。

以来、通過する時のランドマークになったのですが、それほど水量の多くなさそうな朝比奈川から次の大井川までは水路があるくらいで主要な川はなさそうです。

 

焼津を過ぎると新幹線の車窓の海側には駿河湾に向けて広大な水田地帯が見えるので、大井川の水を利用した古くからの水田地帯だろうと思っていました。

いつか歩いてみたい、それがいよいよ叶う時がきました。

 

大井川港までバスの車窓から、広々とした灰色の土の水田地帯と冬でも水量のある水路が見えました。

大井川港から川沿いに、飯淵地区のバス停まで歩きました。川の流れは速く、水鳥がその流れで遊んでいます。明るい日差しの中で、庭の花も美しい道でした。2月中旬、もう春の気配です。

途中、津波タワーがあって、避難路の説明もありました。

工場や住宅が多い地域から、河口を遡るにつれて水田が増えてきました。

 

川風と海風と両方でしょうか、時々強い風にあおられそうになりますがそれほど寒くは感じません。

バスの時間までもう少しあったので、200mほどのところにある大井川の堤防まで水田地帯を歩きました。堤防の内側に主水路があり、そこから分水された水路が流れているようです。

堤防の上に行くと、河口と海が見えました。河口から約2.5kmの地点です。

 

また藤枝吉永線のバスに乗って、遮るもののない富士山と南アルプスの白い山頂を眺めながら水田地帯を戻ると、途中「利右衛門」の石碑が見えました。

どの地区もどっしりした和風の家とゆったりした敷地の家々が続き、用水路の河津桜もまた美しい田園地帯を抜けて、念願の大井川左岸の田んぼを見ることができました。

 

 

*「ザル田」だった*

 

ずいぶんと昔から大井川の豊かな水によってひらけていった水田地帯だったのだろうという印象でしたが、「大井川土地改良区」を読んだら違っていました。

 

大井川流域の志太、榛原地区の灌漑揚水は、昔から大井川の両岸に設けられた12箇所の水門より取水していました。当時の施設は本流まで川床を掘り下げ、石を積みあげたりして水門口まで導水する方法があったため、洪水時に施設が流され、取水には大変な労力と費用がかかり、農家の皆さんはこれらの維持管理に大変苦慮していました。また用水路が不完全なことを加えて、この地域の水田は「ザル田」と呼ばれている砂礫層の水田で大量な用水を必要としていることなどから、水争いが絶え間なく起こっていました。

 

「砂礫層の水田で大量な用水を必要としている」

真冬でも水量豊かに流れている水路でしたが、染み込みやすい土壌も何か関係があるのでしょうか。

土の性質と水量の関係もそれぞれの農地で違うことさえあまり思い至らないままで、「美しい田んぼ」と楽しんでいました。

 

このようなことから、昭和22年大井川用水普通水利組合を設立して、国営事業により川口発電所の放流口より取水することで大井川用水事業に着手し、これに付随する下流部は県営事業等で施工され、昭和47年に現在のように用排水路が整備されました。

大井川用水は長い年月の間、農作物の「命の水」としての役割のみならず、生活用水・防火用水・環境用水など地域のための用水(地域用水)として大きな役割を果たしてきています。

(「大井川土地改良区」、水土里ネット)

 

小学生の時に大阪万博へ行くのに初めて新幹線に乗った時の車窓の風景の記憶はまったくないのですが、日本中、まだ都市の風景よりは田園の風景が多かった時代ですからきっとこのあたりの新幹線沿線も広大な水田地帯だったことでしょう。

 

そしてこのあたりの水田地帯は、万博の2年ほど前に完成した大井川用水によってようやく安定した水を得ることができた。

私の中の年表が少し正確になりました。

 

当時の田んぼはどんな風景だったのでしょう。

 

 

 

 

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