散歩をする 382 黄瀬川沿いに五竜の滝へ

裾野の水の神様のあと、一旦、黄瀬川とは反対に東へと向かい、JR御殿場線の踏切を渡ったところにある深良神社を訪ねます。

跨線橋の上からは富士山の雄大な姿と、深良用水によって開かれた水田地帯が見えました。

 

水田に囲まれた鎮守の森の中に静かに深良神社が建っていて、その周囲を水路が通っています。御由緒はわからず、1906年(明治39)創建ということだけわかりました。

 

*深良用水分水路と深良震橋*

 

冬でも水路には水が流れ、その音を聴きながらまた御殿場線を渡ると、国道246号線の旧道との交差点のそばに、分水路が見えてきました。

分水路の水は道路の反対側からこの交差点の下を流れていて、二手に分かれていくようです。

「深良用水 中郷 宿堰」と表示がありました。

 

交差点の名前は「深良震橋(ふからゆるぎばし)」で、「震」は「ゆるぎ」と読むことを初めて知りましたが、帰宅してから検索すると、「石仏探訪 高遠石工の作品を訪ねて」というブログの「静岡県裾野市深良震橋傍の石橋供養塔」(2017年4月28日)にこんなことが書かれていました。

地名の震橋(ゆるぎはし)は、揺れる橋だからではなく近くに震石(ゆるぎいし)なるものがあったためのようです。川の分岐点で周りに橋がたくさんあり、このどれかが石橋だったのでしょう。石橋は既になく石橋供養塔だけが残っています供養塔は急いで作られたためか、かなり乱雑な彫りになっており、高等石工とは思えないものになっています。

 

たしかに、対岸の流れのそばに道祖神のような石が並んでいました。

私にはなんの変哲もない道祖神と通り過ぎたのですが、こうした先人の記録に出会うと世の中というのはそこに暮らす市井の人の正確な記憶と記録によって成り立つものですね。

 

 

五竜の滝へ*

 

その交差点から黄瀬川左岸の堤防付近へと少し上り坂を歩き、住宅街を抜けると大きな新しい橋があり、黄瀬川に対して少し北側へと斜めに掛かっているように見えました。橋を渡り、246バイパス沿いに300mほど下流へ歩くと東名高速道路が並行し始め、そのあたりに五竜の滝があるようです。

 

両岸の堤防もそれほど高くなく、黄瀬川の川幅もゆったりと流れています。

美しい水面を眺めながらのんびり歩いていると「増水すると危険」という表示があり、近づくと、「令和元年10月の台風19号」時の濁流が川幅いっぱいに荒れ狂うように流れている写真でした。

 

川岸に雑木林が見え、五竜の滝がある裾野中央公園に到着しました。

林の中を歩くと大きな3本の滝と、左岸側からの2本の滝の真正面から見られるようにベンチがあり、しばらくそこで水の音を聴きました。

約一万年前の新富士火山三島溶岩流の断崖に形成された滝で、玄武岩溶岩流の断面が観察できる貴重な学術資料です。

滝の高さ十二メートルの間に、溶岩層が重層し、地下水が溶岩の間から出てくる様子が分かります。

本流にかかる大きな三条の滝を雄滝(おだき)、東側の小支流にかかる小さな二条の滝を雌滝(めだき)といい、滝にはそれぞれ左から、雪解け・富士見・月見・銚子・狭衣(さごろも)という名が付けられ、これが五竜の滝の名の語源となっています。

この付近は以前佐野瀑園と呼ばれ、五竜館というホテルも建てられていて、皇族方も来訪されました。

また、新田次郎若山牧水もこの地を訪れ、新田次郎は小説「蒼氷(そうひょう)」を執筆し、作品の中に舞台となった五竜の滝や愛鷹山(あしたかやま)が登場します。若山牧水五竜館に宿泊し、歌集「麦の秋」・「野なかの滝」・「渓間の春」を創作しました。

   裾野市教育委員会

 

黄瀬川はまた流れをさまざまに変え、ここから数キロぐらい下流には昨年訪ねた鮎壺の滝があります。

 

美しい川でも農業用水には不向きだった川が、左岸の深良用水と本宿用水、右岸の牧堰門池用水により潤されて、人が暮らすことができるようになった歴史をたどることができました。

 

ここから一旦裾野駅まで歩きましたが、途中、水路沿いには公園が造られ、あちこちから水の音が聞こえてくる街でした。

 

 

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