記録のあれこれ 123 「青函連絡船戦災の碑」

八甲田丸が見える海辺に、「青函連絡船戦災の碑」という大きな石碑がありました。

 

 青函連絡船は、青函トンネルの完成により廃止されましたが、八〇年の歴史の中で、「戦災」の悲劇を忘れることはできません。

 第二次世界大戦末期の、一九四五年(昭和二〇年)七月一四日、米海軍艦載機の攻撃により、物流の大動脈であった青函連絡船(○*鳳丸)、「飛鶯丸」「第二青函丸」「第六青函丸」が、八月一〇日には「亜○*丸」が、青森湾で撃沈され、一三一名の犠牲者を出しました。この中に、函館船員養成所大沼分所の生徒一四名(当時一四、五歳)がおり悲しみを一層大きくしました。

 また、七月一四・一五日に津軽海峡と函館湾でも攻撃を受け、青函連絡船は全滅をし、乗員乗客四二四名の尊い人命が失われました。

 今も、津軽海峡には「津軽丸」「第三青函丸」「第四青函丸」がこの航路に殉した人々と共に、永久の眠りについています。

 青函連絡戦災から六〇年目に当たり、この悲劇を歴史に止め、語り継ぐとともに、犠牲となられた方々のご冥福と平和を哀心より祈念し、この碑を建立いたしました。

  二〇〇五年(平成一七年)七月一四日

  六十年目の空襲、戦災の日に

 

 

(*写真に撮ったのですが、字が読めませんでした)

 

 

青函連絡船というと洞爺丸を思い出すのですが、戦災のことは意識することもありませんでした。

 

今、Wikipedia青函連絡船の詳細を読むと、一行一行、正確を期して記録することの大変さに圧倒されています。

 

さらに自然災害や運輸関係の事故に比べて、戦争というのはイデオロギーによって事実を突き止めることが難しい分、全体像を知ることなく時間が過ぎてしまいやすいのでしょうか。

 

この石碑も60年後に建立されたようですから、なかなか戦争について正確に歴史を把握するのは時間がかかるのかもしれませんね。

 

 

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