落ち着いた街 46 田んぼの向こうに丸亀城が見える

丸亀市市内のため池を歩き尽くすぞという無謀な計画は熱中症の危険から断念し、冷房のおかげで生き返りました。

 

コンビニエンスストアを出ると、小高いところに丸亀城天守閣が見えます。

そこから1.5kmぐらいでしょうか。

さえぎるものもなく現代でも丸亀市内からのどこからも見えそうな風景が、なんとも得難いことに思えました。

 

城南町と山北町の間の道をまっすぐ歩けば、丸亀城とお堀に突き当たります。

不思議なのはそのお城に向かう道路はてっきり主要な県道だと思ったのですが、地図で確認しても県道でもなさそうです。

歩いていた時にも特に「〇〇通り」といった標識にも気づかなかったのですが、地元の方々にとって何通りと呼ばれ、何を運んだ道なのでしょうか。

 

お城に向かって歩くのは瀬戸内海へ向かうことなのですが、どこまでも平坦で、下り坂という感じでもなさそうです。

 

地図ではお城が近づくにつれて住宅地になっているようですが、あちこちに広い田んぼが残り、その稲穂の向こうに丸亀城が見えました。

数百メートルほど歩くと、昔の城下町の風情を感じる街に入り鎮守の森が見えました。その東側300メートルほどのところには、訪ねるのを断念した大きな聖池がある地域です。

 

住宅街に入っても、まだ田んぼが残っています。

水路の小さな水門と田んぼの先にどこからでもみえていたお城がしだいに近づき、土手の改修工事が行われているのが見えました。

 

*外濠公園から城内へ*

 

その手前に、立ち寄ってみたいと思っていた場所がありました。

城南町から十番町、九番町へ入るところの外濠公園で、地図ではそこから道が北西へ少し曲がりまた北東へ曲ってお城にむかっています。

 

実際に道が曲がり、大きな鳥居が立っていました。その西側は土手が残っていて公園として整備され、東側は市営住宅になっていました。

 

丸亀城   丸亀市教育委員会

 丸亀市の中央、標高六十メートルの自然山(亀山、旧名波越(なみごし)山)に築いた螺旋式の平山城(ひらやまじょう)で、亀山城とも蓬莱城ともいう。慶長二年(一五九七)生駒親正・一正の父子によって築かれ、元和偃武(げんなえんぶ)の一国一城令により一旦廃城隣、生駒氏四代五十四年で出羽の矢島(やしま、秋田県)に移った。寛永十八年(一六四一)、肥前国天草富岡城主山崎家治が西讃(せいさん)五万三千石の領主となって入城し本丸・二の丸・三の丸とそびえる石垣のほとんどを築いて城を再興した。山崎三代十七年で嗣(あとつぎ)絶え、明暦四年(一六五八)五月京極氏が播州竜野兵庫県)より入城して、南方にあった大手を現在の北面に移し、枡形を造り、天守の工事を完成し、明治維新まで七代居城した。

 現在の城址は内堀以内で、東西四七五メートル、南北五〇〇メートルの延長を有し、堀幅は一〇〜二〇メートルである。

 ここ現在地は、外堀(通称:薬研堀(やけんぼり))の南土橋(どばし)(土手幅九間、約十六メートル)附近にあたり、ここより東へ二百四十間(約四百三十六メートル)、西へ百四十三間(約二百六十メートル)、総延長六町四十六間(約六百九十一メートル)、土手幅九間(約十六メートル)、堀幅十間(約十八メートル)の外堀があった。

 

土塁について

 土塁は土居(どい)ともいい、近世城郭では石塁(せきるい、石垣)が多くなるが、中世では土塁は基本であり、普通堀を掘った土を盛って、土塁とするのが一般的であった。

 土塁には、板などでたたいて固めた「敲(たた)き土居」と、法面(のりめん)に芝を植えた「芝土居」とがあり、外法(そとのり)は急で敵が容易に越せないよう工夫されていた。土塁の高さは、城内で槍を立てても外の敵から見られないようにとの配慮から三間(五・五メートル)が標準であった。

 土塁の上には、中世のはじめは柵、中世末期からは板塀(いたべい)がたてられたが、鉄砲伝来以降は土塀、とりわけ漆喰塗りで狭間のある堅固なものが流行していた。

 

田んぼの向こうにお城が見える美しい風景でしたが、数世紀前であれば闘いと守り、そして権力の象徴だったのですから、当時はどのような思いで天守閣を眺めたのでしょう。

 

目の前の土塁は緑の芝で覆われ、周囲に木々が植えられた静かな公園です。

木陰は涼しい風が流れ、ベンチで土塁を眺めながらひと休みしました。

 

外堀から内堀までの間は住宅地になり、古い屋敷のような家も残っていました。

天守閣はそばに近づくと見上げる高さです。城内は工事中のようなので、美しい水面の内堀に沿って歩きながら対岸の土手を眺めると、ツルボが群生しているのが見えました。

ここまでのあぜ道では見かけることがなかったのに、そして内堀が続く中でもその場所だけのようでしたから、本当に不思議な咲き方をする花です。

 

 

丸亀城の水はどこから来たのだろう*

 

 

内堀の中に丸亀市立資料館があるので、「お堀の水はどこから来たのだろう」の答えを探しに立ち寄ってみました。

 

丸亀城郭及び城下町古地図」がありました。

 享和2年(1802)に書かれたと思われる丸亀城郭の詳しい地図で、城の建物、石垣、井戸などすべてに寸法が記されている。

 二の丸の井戸は深さ36間(約65m)とあり、井戸の水面は、ほぼ、内堀の水面と一致していることがわかる。

 また、城郭内と風袋町の武家屋敷には氏名と家の大きさが書き込まれている。

 

地図によると、先ほどの土塁が残るあたりからの外濠が瀬戸内海に向かってコの字に城下町を囲んでいたようです。

外堀の水は海水だったのでしょうか。そして海が近いのに、たくさんの井戸があったようです。

 

よく見ると外堀は「田」と書かれた場所に囲まれています。

もう一枚の古地図「讃岐国絵図」は寛永10年(1633)ごろもののようですが、ため池と思われる黒い場所が讃岐全体に10ヶ所ほど描かれていました。

香川のため池の歴史が描かれている二つの古地図でした。

 

ここまでのあの田んぼの向こうに丸亀城が見える風景、何世紀も前の人が見ていたものと同じかもしれませんね。

 

 

 

 

 

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