記録のあれこれ 146 行基さんの像と東大寺の行基堂

近鉄線奈良駅の出口にあった行基さんの像にこんな説明が書かれていました。

 

行基菩薩

 

 行基菩薩は天智天皇の七年(六六八年)に大阪府堺市に生まれ十五才にして奈良京薬師寺に入り仏堂修行とその研究に励み、二十四才で授戒得度をされた仏教の学問をよく究め天皇の尊敬を受け現在の平城の聖域に遷都することを奏し元明天皇和銅三年(七一〇年)に平城遷都したその造営にあたり先づ南都諸大寺の移建と建立例えば薬師寺大安寺の移建を初め興福寺元興寺及び総国分寺東大寺の建立等四十八ヶ大寺院を建立されたその他全国にわたり開基した寺院道場は約七〇〇におよぶといわれている一方民生社会事業としても実践主義に徹し庶民を教化し人のために橋をかけ堤を築き池を掘り日本最初の独孤院や日本地図を作った又飢えと厄病に苦しんでいる庶民救済として布施屋(宿泊所)施薬院などの社会の為の事業を次々に行い庶民の信仰を深め奈良朝に於ける国民思想の確立を計画され唐朝の文明文化を輸入し奈良朝文化に貢献された恩人である今日の庶民仏教と社会福祉の基を開いたのは実に行基菩薩であると仰がれている聖武天皇天平二十一年(七四九年)八十二才のとき奈良西郊の菅原寺で数千の弟子に囲まれ遷化し生駒の往生院に葬られたがその生涯かけての業績の偉大さは一二〇〇有余年の今日もなほ多数の人々の心の中に行基菩薩は生きているのである

 

昭和四十五年三月 奈良市長 鍵田忠三郎

 

昭和45年(1970年)、万博が開かれて豊かな生活を満喫し始めた頃ですが、もしかするとこの碑と像が建てられたのはそこに至る戦前から戦後25年の社会の狂気のような混乱から目が覚めた市井の人々の葛藤を言い表しているのではないかと思えてきました。

 

白を黒へ、黒を白へ。そしてまた黒を白へと繰り返している現在の状況だからこそ、この行間が理解できたとも言えるかもしれません。

 

 

東大寺行基堂*

 

東大寺の二月堂へ向かう途中の行基堂には、こんな説明がありました。

行基堂(ぎょうきどう)江戸時代

 

 このお堂は、もと俊乗房重上人坐像が安置されていたと言われている。方一間、円柱、本瓦葺で頂上に鉄の露盤と宝珠を乗せ、宝形屋根を形づくっている。正面に向拝をつけ、角柱また正面と向拝に蟇股(かえるまた)をすえ、江戸初期の建物を見られる。内部には寄棟造り・唐様の厨子を安置して、竹林寺の旧蔵(現在唐招提寺移安)を模して造られた行基菩薩坐像が祀られている。

 この像は、当初公慶上人によって造立が始められたが、未完成のまま中止されていたのを弟子の公俊が遺志を継ぎ、享保十三年(一七二八)四月に即念法師と仏師賢慶に命じて造らせたものである、賢慶は大仏殿の脇侍菩薩を製作した東大寺仏師として知られる。

 

1728年ごろはどんな時代で、行基さんの記憶が人々の中に呼び覚まされたのでしょうか。

 

お堂の前に書かれた行基さんの説明には、こんな一文がありました。

行基菩薩(六六八〜七四九)

 行基は、和泉国大島郡(現在の大阪府堺市)で生まれ、十五歳の頃出家し道昭の弟子となった。救済活動や治水・架橋などの社会事業を盛んに行なったが、国から活動を制約された時期もあった。

(以下略、強調は引用者による)

 

行基さんは朝廷より民衆を惑わす妖僧とされ、その布教活動を弾圧されたにもかかわらず、民衆の苦難を救うための道に進み出した、だからこそ行基さんが作った水路だと語り継がれ、繰り返し行基さんの記憶が深められてきたのでしょうか。

 

そして「仏の心を、民衆の暮らしを、日本の未来を」と行基さん大感謝祭が現代も開かれるその理由は偉人の物語としてよりは、国家的な災いの時代に「国の病気を取り除く」ための普遍的なこと、何世紀後にもつながる何かが脈々と伝えられているのかもしれませんね。

 

あちこちで見かける行基さんの記録の意味が少し理解できるようになってきました。

 

 

 

 

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