米のあれこれ 37 「腰切り田」「乳切り田」

津軽平野を訪ねようと地図を眺めた時に、まず目に入ったのが岩木川十三湖流入するあたりの干拓地でした。

今まで干拓地について読んだものの中にたしか国営十三湖干拓事業があり、ここだったのかとつながりましたが、そこから上流へと眺めていると何だか今までの干拓地や水田地帯ともちょっと違う印象です。

 

十三湖から蛇行した岩木川がずっと南へと続いている様子は、凧のようです。

その凧の糸のような岩木川の流れを追うと、両岸に十三湖方面へと無数の水色の線が描かれています。そのあたりが気になりました。

 

その一つに承水路とついた水路を見つけ、そこから検索すると「津軽平野の多条並列灌漑水路」(籠瀬良明、東北地理30-1(1978))という資料に、以前はもっと複雑な水路で筆者が驚いたことが書かれていました。

筆者は昭和35~38年、津軽平野の水田地帯で、灌漑用水が数条ないし10数条の束をつくって延々と連なっている光景に驚いた。その後もこの形態に注意してきたが、同種のものを青森平野の小部分と津軽平野以外から発見できなかったため、再調査の上、これを津軽平野特有のものと結論した。この水路形態を多条並列灌漑水路と仮称する(略称は多条並列水路または並列水路)。

 

数本の水路が並行したり交差している実際の様子が1962年に航空写真で撮影されていて、以下のような説明がありました。

そのほか津軽平野の水田地帯には、隣地の水田地域やりんご園を長い用水路で通り抜けて、下流地域の水田を灌漑する用水路、確かな排水路へつながらず、流末が不鮮明な灌漑用水路、確かな水路を持たず、上流側からの藩水を受けて水田耕作を営むもの、さらに他の農家または他集落の用水路と立体交差する灌漑用水路など各種のものが分布する。

 

私が生まれた頃そして子どもの頃のどこでも整然と水路が引かれている水田地帯のイメージとは、全く違う様子が描かれていました。

 

*「腰切り田」「乳切り田」*

 

東北では稲作の歴史が浅くてこのような混乱した水路になっているのだろうかと検索していると、「津軽で生まれる子らに」(「水土の礎」)の「古田放と土淵堰」に津軽藩の時代からの新田開拓が書かれていました。

第一に、じゃじゃ馬のような岩木川をねじ伏せるか、あるいは、もうひとつの岩木川ともいうべき巨大な用水を造らねばならない。この水浸しの平野から水を抜く排水路が必要になる。さらに旱魃(かんばつ)に備えて溜め池も築かねばならない。

 

「水浸しの平野」

これが十三湖岩木川が蛇行して長細くつながっている「凧のような津軽平野」の印象の正体だったようです。

 

江戸時代初期から用水路と排水路が造られてきたというのに、昭和まで水に浸かりながらの農作業であったことが書かれていました。

当然のことながら、極端な排水不良田である。水が腰まで浸かれば「腰切り田」、胸まで浸かれば「乳切り田」と呼ばれた。

昭和の世まで、写真のような凄まじい光景が農作業の日常であったという。「中掻(なかが)きの頃は日照りで水不足になることが多かったので、朝2時、3時頃に水車に上がり、足で踏んで水掻(か)きしました。」田植えの後は血の小便が出たと、まだ現役の老農夫はその過酷さを語っている。

洪水、渇水、ヤマセによる凶作、そして、厳しい農作業に加え土木普請(ふしん)の苦役。

 

津軽平野の多条並列灌漑水路」によると、江戸時代からそれぞれの地域で造られてきた水路について地元の人と調整しながら整備され始めたのが1970年代だったようです。

 

あの石川県の「刈り取った稲は舟に乗せる」という邑知潟を思い出しました。

そしてそれほど遠くない昔、私が子どもの頃にもまだそういう方法でお米が作られていた地域があったのだと愕然としたのでした。

 

 

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