水のあれこれ 252 板柳の鶴田枝川堰と鶴田足水堰

新幹線の方が安く感じてしまうようなタクシー代ですが、人生でそう何度と足を運べるわけではないので、旅先でここは譲れないと思えばエイッと奮発してタクシーを使います。

五所川原からタクシーを使う予定でおおよその金額は計算していましたが、あちこちに寄ってもらうので予定よりも高くなりそうなら板柳駅で降ろしてもらおうと考えていました。

 

タクシー代という現実的な理由もありましたが、行く前に地図を眺めていたら岩木川の近くに「青女子」という地名があったことと、板柳駅の手前に岩木川に並行してなん本かの水路が描かれていたので気になっていました。

「青女子」は「あおなご」と読むようで、「青女(せいじょ)」は「霜・雪を降らす女神。転じて霜や雪」(デジタル大辞泉)だそうですが、どんな場所なのでしょうか。

 

タクシーから見た風景からはその由来は分かりませんでしたが、水路沿いに遊歩道があるのが見えました。次の五能線の時間まで30分ほどあったので、駅からその遊歩道を訪ねてみました。

 

*遊歩道沿いの板屋野木の歴史を書いた石碑*

 

板柳福祉センターのそばに水路と遊歩道が美しく整備されていたのですが、何枚もの大きな黒い石に縄文時代からのこの地域の歴史が彫られていました。

 

「板柳」は元は「板屋野木(いたやのぎ)」だったという地名の由来や、「津軽平野の新田開拓と当町」「りんごの里の始まりは、数本の苗から」といった歴史や「町の位置と町勢」の地理まで、自分が生活している地域のことが網羅されていました。

遊歩道沿いがまるで「郷土資料館」のようです。

 

その中に、「鶴田枝川堰、鶴田足水堰の歴史」がありました。

【鶴田枝川堰の歴史】

 

慶長(一五九六〜一七六四)年間に開削されたといわれる古い用水で、取水位置は浅瀬石川の田舎舘村大字畑中地先(現在の田光橋付近)にあり、板柳町飯田集落付近の水田、県道藤崎〜五所川原線(当時名称。現在の国道三三九号線か)と五能線に挟まれ鶴泊集落に至る地区の水田、旧六郷村胡桃舘、中野、山道の水田三百五十ヘクタールを潤していた。かつて、浅瀬石川の水量は、渇水時期に入ると上流十一ヶ堰で全量取水するため表流水は完全に枯渇するので、対岸の枝川三堰地域からの方流水を取水していたという。標高は上流部で約十六メートルであり、水路縦断勾配は約千分の一である。取水元の河川水が不足がちだったこと、堰堤の老朽化により漏水が多かったこと、導水幹線水路が台地を通っているため掘削深が二〜五メートルにも及んだこと、降雨時には土砂崩壊のため河床が高まり、かつ水量の損失も大きかったことなどから、水利用には苦労が絶えなかった。

 

【鶴田足水堰の歴史】

このような中にあっても開田は進む一方で、その用水不足は深刻感を増し、農民たちは常に水争いを起こし、時には流血にまで至ったといわれる。当時、赤田組・広田組・俵元新田組抱合の大庄屋安田次郎兵衛は、農民の窮状を見かねて、既に開削されていた五所川原堰の留切堰土俵を利用し、余水の引き入れを申し出た。最初は受け入れられず難行したが、五所川原堰・枝川堰の庄屋相方の間に協定がなされ、宝暦十年(一七六〇)、足水堰の掘削に着手した。取水は藤崎町大字白子字三貫の河原地で五所川原堰取水口と並行にして掘削され、その規模は長さで五所川原堰の半分程だが、幅と深さではそれに匹敵するほどの大工事で安田家の多大な私費を持って突貫工事をし、板屋野木の宮下まで僅か一ヶ年で完成した。当時この恩恵を受けた水下の村々は、現在の掛落林、鶴田町大性、菖蒲川、鶴田、鶴泊、強巻、大巻、境、胡桃舘、中野、山道の十一ヶ村七百六十ヘクタールに及んだ。(慶長年間に開削された母堰の鶴田枝川堰は、昭和六十二年に閉鎖され、その後は鶴田足水堰だけで灌漑されている。また、最高の水利用時は約一五〇〇ヘクタールに及ぶ)

 

説明には、「水門」「排水門」「揚水場」の位置関係がわかる図も描かれています。

子どもにはむずかしい内容ですが、繰り返し繰り返しこの石碑の内容を読みながら成長し、その行間まで理解できるようになると正確にこの地域の水の歴史が伝えられていくことでしょう。

 

地図の水色の線が気になってふらりと立ち寄った遊歩道でしたが、美しさだけでなく圧倒されました。

 

福祉センターのそばには「想定浸水深3.0m この場所は岩木川がはん濫すると地上から3.0mの高さまで浸水する可能性があります」という表示がありました。

 

 

 

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