先日、都内の電車の中で田舎館の田んぼアートの広告を見ました。
ちょうど2ヶ月半前、私が訪ねた時にはこれから田植えをするかという時期で、空き地のような田んぼにスタッフの方が何か作業しているのが車窓から見えました。
さて、津軽平野を見て歩く遠出の2日目は、午前中から十三湖までの水田と水路と溜池を見て、津軽藩時代からの土淵堰を見て、さらに予期せず板柳の水路と歴史 まで見るという充実した時間でした。
ここから弘前に出て、まだ半日あります。
計画の段階でどこを見ようかと地図を眺めていた時に、「土淵堰の取水口と、弘前城への取水口と思われる場所」「大鰐線に乗る」「弘南線に乗る」の3つの候補がありました。
弘前はJR奥羽本線と五能線だけでなく、市内から放射状に路線があります。どんな鉄道の歴史があったのかも気になりました。
ふと、黒石駅のそばに浅瀬石川ダム資料館があることに気づきました。
岩木川の支流の浅瀬石川が黒石市の南側を流れています。さらに地図を拡大していくと、その浅瀬石川の右岸を二本の水路が並走していて、その名も黒石という地名のあたりで一本の水路がぐいと北側へと向きを変え、その先にある水田地帯へと流れているようです。
ここを見てみたい。2日目の午後の計画が出来ました。
*弘南鉄道で黒石へ*
11時20分、板柳駅から弘前行きの五能線に乗りました。次の藤崎駅は「ふじりんご」の里で、沿線はりんご園が続きます。川部駅の手前で浅瀬石川に近づき、スイッチバックして弘前へと向きを変えると車窓は田ごとの八甲田山が映る水田地帯になり、左手に八甲田山、右手に岩木山が見えました。
弘前駅周辺は23度でした。5月中旬ですから暑く感じます。これから午後の半日をまたかなり歩く予定ですが、きっと挫折する予感がしました。
弘南鉄道は冷房ではなく、天井に扇風機がある懐かしい車両でした。よく見ると東急の車両のようです。あの1970年代から80年代初めごろ、真夏でも病院では消灯とともに冷房が切れる時代に都内を走っていた車両ですね。一般家庭もエアコンはまだまだ贅沢品でしたし、災害になるほどの暑さではなかったのでした。
田園地帯の良い香りの風が入ってき始め、田んぼアート駅を通過しました。
浅瀬石川を渡り、植松駅の近くで線路のすぐそばに分水路が見えました。列車が少し上っていく途中、その中腹を流れるように水路が造られているようです。
暑さで引き返そうかなと思い始めていましたが、その滔々と流れる水路を見たら、やはり計画通りに歩こうと元気が出ました。
*黒石の水路を歩く*
黒石駅の周辺は平地で、それまでの水田地帯より少し高台に広がっている街でしょうか。
まずはダム資料館を目指しました。駅から2~3分の住宅地にあるようです。GPSで確認しながら訪ねてみましたが、普通の家があるだけでした。
行く前に、駅から東へ3kmほど離れた浅瀬石川沿いの東公園のそばにも「ダム資料館」があるのを見つけたのですが、もしかすると移転したのかもしれません。
浅瀬石川を読むと、その日の午前中見て回った地域の歴史とも深い関係があるようです。
残念でしたが、気を取り直して水路を目指すことにしましょう。
県立黒石高校のそばには、古い雁木(がんぎ)の残る家が続いていました。
南へ曲がって歩くとぐんと下り坂になり、その先に水路がありました。
浅瀬石川と市街地の中間ぐらいの高さをぐるりと通っているようです。深さはそれほどでもないのですが、轟々と水が流れている様子は人喰い川を思い出しました。
それよりも一段低い場所にもう一本、これよりも大きな水路があって、こちらはところどころ水しぶきをあげて流れています。
緩やかに蛇行しながら水路の上流側へと歩くと、左手の高いところに森のような公園がありました。
その角の水路のそばに小さな稲荷神社の祠があり、「御穀水」と掘られた石碑がありました。
地図で見つけた場所を歩くことが出来ました。
せっかくなので一度歩いてみたいと思っていた雁木造の地域を訪ねました。やはり水路があり、どこからともなく水の音が聞こえてきます。
冬はどんな風景なのでしょう。
そして雪解け水に耐えられる水路を、どうやって維持しているのでしょうか。
もっと歩いてみたくなりましたが、次の場所へ向かうためにまた弘南鉄道に乗りました。
今度の車両は、吊り革のベルトが「東急百貨店」「109」でした。
セピア色になりかけていた1970年代の渋谷の風景が、昔からの水路を見ているとやはり現代なのだと混乱しながらまた車窓の水田地帯を眺めました。
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