行間を読む 71 <先人の表現に出会う>

地図を観て、ふと行きたくなった場所に行き当たりばったりで散歩をすることを繰り返しているうちに、今まで見ているようで目に入っていなかったことが見えて、ひとつの水系の全体像を歩いて知りたいという壮大な目標になりました。


そして、書籍を探したり、ネットで検索をするとすでに何人もの人が、同じ様なことに向かって目指していた記録が見つかります。
おそらく、自分の30代頃だったら、「なんだ、自分が最初に気づいたと思ったのに。もう先を越されていたのか」と少々がっかりしたかもしれません。


ところが最近は、私自身の中に浮かんで来た疑問や感想、あるいは思いつきのような漠然としたものを、すでに表現してくださっている方々に尊敬の念を感じるのです。


昨日の記事で紹介した、「武蔵野・江戸を潤した多摩川」の「まえがき」もそうでした。
長文ですが、ご紹介します。

 学生時代から歩くことが好きだった。昔読んだ本に『利根川図誌』(1855年、赤松宗旦著、岩波文庫)があるが、この本は利根川流域の自然、社会、民俗伝説などを広く詳述した地誌であり、赤松は取材の旅もしている。そこに描かれていた、カッパ伝説、手賀沼近くの竹林の怪、女化原などの超怪奇現象的な物語はいまでも印象に残っている。このような非科学的な話は現在では通用しないが、これに似た話はどこにもたくさんあるだろうし、こんな楽しい見聞の「歩き」をいつかはしたいと思っていた。

 「水は文化を運ぶ」と言われるが、退職後、多摩川玉川上水などを歩くうちに、自然の恵みのなかで文化は育ち、川を通して伝わり拡散し、発展する。まさにその通りと実感した。多摩川から取水された上水・用水が武蔵野や江戸(東京)の発展に寄与した役割の大きさと、その開発にかかわった職人や技術者の英知にあたらためて驚かされた。

 わが国の水利用の歴史をみる限り水田開発が中心であった。ところが関東ローム台地や谷津が組み行った土地条件では、それとは異なる技術が必要とされる。台地開発の技術が従来の水田開発とどう異なるのか、水をめぐる技術がどのように伝承されたかなど、現場の事例から見直したいと思ったのである。

 多摩川の水は、右岸では相模の二ヶ領用水、左岸では六郷用水、府中用水、さらに玉川上水を軸に野火止、青山、三田、千川、その他、さまざまな武蔵野の用水につながっている。なかでも玉川上水が幾度かの失敗を重ねて台地開発を可能にしたことは、水利技術にとってもおおいに興味のある問題である。既存の説や文献に囚われることなく、現在残されている遺跡を一つ一つ歩くことによって実証的に、その存在意義や相互のつながりを工学的側面から検証してみた。

 この本では、はじめに河川全域で見聞し、感じたことを記し(第1部多摩川源流を訪ねて)、次にそこから取水された上水・用水について述べ(第2部 武蔵野・江戸を潤した多摩川の上水・用水)、それら相互の関連、人との関わり、社会の流れを見ようと試みた。市井の人々や農民の水への執着、その技術向上への飽くなき努力が伝われば、望外の喜びである。多摩川の利水、玉川上水の開削はまさに「水と土、人間万感」の姿そのものと思う。このようなことを考えるに至ったのも「歩きの効用」だろうか。


子どもの頃から水が好きだったことが、20代の頃に玉川上水への関心になり、思わぬ広がりをもって今の関心へとつながって来ました。
そして、仕事のことだけでなくあらゆる面で、まだまだ世の中は分かっていないことだらけであり、既存の説に囚われることなく、そして新しい理論に飛びつくことなく地道に考えるあたりも、このまえがきと重なってきます。


ほんと、歩きながらいろいろと考えが浮かんでくるのも楽しいものです。


この著者は1932年生まれで、「環境土地利用論」「農地工学」「緊急提言 食糧主権ー暮らしの安全と安心のために」「身近な木の環境科学」など執筆されていらっしゃるようですが、この本の中では、玉川上水のまだまだわかっていない謎の部分に挑戦されていらっしゃる記述がたくさんありました。


拙速に結論を出さずに、こうした思考の過程に触れられることが、最近の面白さになっているのかもしれません。
そして「先人」とは、単に年齢や経験が上といったことではなく、その分野の専門性への敬意という感じかもしれません。




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