記録のあれこれ 125 岩木川水系の洪水の記録

土淵川と寺沢川の洪水について検索したところ、弘前市弘前図書館の「おくゆかしき津軽の古典藉」の中に、昭和50年と昭和52年の水害の記録がありました。

 

相次ぐ水害と商店街

 

昭和五十年(一九七五)八月には土淵川が氾濫し、市内の中心商店街が被害を受けた。この水害は、台風五号くずれの低気圧によるもので、青森県内では土淵川のほか、平川、浅瀬石川が氾濫し、弘前市黒石市大鰐町ほかが被害を受け、被害者は三万五〇〇〇人、被害額は二〇〇億円であった。土淵川に関しては、七ヶ所の橋梁が流出し、カネ長デパートほか下土手商店街が特に大きな被害を受けた。

 

昭和五十二年(一九七七)八月にも水害が弘前市を襲った。この水害は八・五水害と呼ばれ、その被害額は昭和五十年の水害を上まわった。この水害のうち、商工関係の被害は次のように記されている。

津軽地方を襲った集中豪雨いわゆる八・五水害は、総額百九十億円を超える被害をもたらし、弘前のみでも寺沢川、土淵川沿岸を中心に床上浸水、家屋の全半壊、橋梁流出、多数の死傷者を出し、昭和四十九、五十年の水害をはるかに凌ぐ惨状を呈したが、弘前商工会議所では、災害の翌六日早朝より、職員九名が、市役所職員と共に商工関係者の被害調査に乗り出した。被害件数は四六七件(床上浸水)、被害総額は七日午後二時現在で十億五七四万円に達し、その後の調査でさらに増加を続けている。

 

昭和50年、52年の水害が市の通史に掲載されるレベルであったようです。

ちなみにこの弘前図書館の通史は965ページにも及び、さまざまな歴史を網羅した記録がネット上で公開されて誰もが読めます。

 

*青森河川国道事務所の「水との闘い」より*

 

「青森河川国道事務所」に「水との闘い」の、「洪水の被害に泣いた」にも記録がありました。

 

 津軽の文化を育む恵み深い岩木川の流れ。この穏やかな流れも突然荒れ狂い、平和な暮らしを奪い取る洪水となって、人々を襲うこともしばしばでした。

 岩木川は上流部の河床勾配が急で、洪水流出が短時間に集中しやすい特徴があります。それに加え下流部では、河床勾配が緩く洪水が長期化するなど、流域は宿命的な水害に悩まされてきました。そして、幾度となく繰り返された水との闘いを通して、人々は多くのことを学び、新しい技術や文化を生み出してきたのです。

 岩木川の洪水による被害は、古くは室町時代永禄10年(1567)から記録され、その数は百数十回にも及んでいます。昭和に入ってからの主な洪水は、昭和10年8月、昭和33年9月豪雨の通りですが、特に昭和50年8月洪水では、岩木川上流の岩木山蔵助沢の鉄砲水により、岩木町百沢部落の22名が犠牲となりました。また昭和52年8月洪水では、弘前市街の土淵川寺沢川が普段の20倍もの川幅となり、沿岸の人家を総なめにし、犠牲者11名を出した大惨事は忘れられません。最近では平成2年9月洪水、9年5月洪水により、家屋や農作物に大きな被害がありました。

(強調は引用者による)

 

岩木川の洪水が室町時代から記録されていることにも驚きです。

このサイトでは昭和以降の洪水の記録がまとめられています。

 

 

*「水害と治水事業の沿革」より*

 

 

さらに、国土交通省の何年のどのような資料かはわからないのですが、「水害と治水事業の沿革」が公開されていて、寛永元年(1624)からの「岩木川水害史」がありました。

この中に、昭和50年と52年の水害の状況についても写真と詳細な説明があります。

 

昭和52年8月洪水

 

 8月4日未明、日本海西部と朝鮮半島にあった低気圧は北東に進み、5日3時には日本海中部、9時には津軽海峡西部に達し、21時には北海道海上に去った。

 この低気圧はそれほど強い発達はしなかったが、前線を伴っていたため北日本の上陸は南から湿った空気が入り込み、さらに沿海州に寒気団があり、大気の状態が非常に不安定で前線の活動をさらに強めた。

 4日夜半から津軽地方では、雷を伴った強い雨が降り出し、4~5時間続いた。その後、雨域は南下して一時小康状態となっていたが、低気圧後の二次前線の影響と見られる雨域があらわれ、黒石、弘前付近では16時頃から再び強い雨となり20時半頃まで続いた。各地の雨量は、五所川原120mm 弘前242mm 黒石253mm 四兵衛森328mm 大鰐134mm 八甲田238mm 浪岡225mm 1時間の最大降雨量は5日19時に弘前、黒石58mmと記録的な豪雨となった。

 この豪雨により、岩木川、平川、浅瀬石川などの各河川は急激に増水し各地に被害をもたらした。直轄館区間では破堤等の直接的な被害はなかったが、岩木川下流では、堤防すれすれまで水位が上昇し危険にさらされた。

 弘前市では、土淵川支川、寺沢川上流に点在するため池が決壊したため急激に増水し、死者行方不明者9名が出たほか、その他建物、耕地、土木施設などに大きな被害があり大惨事となった。浅瀬石川流域の被害も大きく、黒石市では死者、行方不明者が2名出たほか、各方面にわたり大きな被害が出た。

 平地河川の十川及び浪岡川の各所で越水破堤があり、浪岡町では町全体が水浸し、国道7号線が通行止めtpなるなど大混乱となった。この時の被害は、その他各市町村に及び、特に中弘南黒地方が大きく、流域内の被害総額は約235億3千万円にも達した。

 

なぜここまで寺沢川の水害を検索してみようと思ったかというと、こちらの記事にミルラさんから頂いたコメントの「藩政時代の地図を見ますと」の一言がきっかけでした。

 

自分が住んでいる地域の地理や歴史についてさらりと「藩政時代の地図」が出てくることに、ミルラさんはどんな方なのだろう、もしかすると子どもの頃からこういう話を常に耳にするような文化があるのだろうか、先祖代々この土地に生きているという人たちの感覚は別世界だった私に足りないものが、こうした記録を読むことだったのではないかと思えたのでした。

 

 

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