米のあれこれ 38 水田か畑か

時間があると地図を眺めては「この水田の水はどこから来るのだろう」と用水路や堰を探すのが趣味になってきて、それが散歩の計画につながっていきます。

そして干拓地の歴史にまで関心が広がってきました。

 

*福島潟の干拓の歴史*

 

福島潟の歴史を読み、そこにもまた国営福島潟干拓事業があったことを知りました。

JR豊栄駅から歩き始めて「福島潟はまだか。遠いなあ」と思いながら歩いていたあの水田地帯も、昔は福島潟の一部だったようです。

 

Wikipedia福島潟の「歴史」に、昭和の干拓についての年表が書かれていました。

・1965年ー地元の要請を受ける形で434haの福島潟のうち168haを水田にすることを決定。

・1972年ー干拓地配分に向けた公募を実施。227戸への配分が決定。コメの生産調整が終わる1975年までは水田を認めず畑作に限るとされたが、生産調整は1975年以降も残り、減反を進める国と水稲栽培を進めたい農家の間で対立が生じた。

・1975年9月ー国営による干拓工事が進み、ほぼ現在の形となる。国営干拓事業では当初福島潟を全て干拓する予定だったが、工事が始まってから二度の水害に襲われた際に福島潟の治水機能が見直されたために半分程度残したといわれる。

・1976年ー国は干拓工事が終了していないとして、1976年以降も水田化を認めず畑作のみを認めた。これに反発した農家が同年4月に水田化に向けて一斉に耕起を始めたが、国は干拓地への立ち入りを認めないことを求める仮処分を申請。同年4月28日、新潟地方裁判所新発田支部は国の仮処分申請を認めた。農民側は干拓地へ侵入して田植えを始め、国側が水稲の強制撤去を通告する泥仕合が続いたが、同年9月3日、県社会党議員団と新潟県知事の会談の中で、強制撤去前に「収穫」することで合意。9月4日中に刈り取りが行われた。

 

私が高校生になった頃、「農民が水田化に向けて一斉に耕起を始める」それに対して「国は干拓地への立ち入りを認めない」など激しい応酬があったとは知りませんでした。

せっかく育った稲はどうなったのだろうと思ったら、強制撤去前に収穫するという譲歩になったようでホッとしました。

 

各地の整然とつくられた大小さまざまな水田と畑にする場所の違いは、水がないから畑にするぐらいの認識でした。

米あまりの時代に入り、水田か畑かのこんな激しい干拓地の歴史があったのですね。

 

 

*おまけ*

「二度の水害」がなかったら、福島潟は残っていなかったかもしれない。

 

これもまた、それまでの時代の葛藤や問題点が少し明らかになって見直す機会になる竹の節のようなものかもしれませんね。

そして大熊孝氏の脱ダムの考え方も当時の各地でのこうした経験からきたのでしょうか。現在はビュー福島潟名誉館長となっていました。

 

 

「米のあれこれ」まとめはこちら