水の神様を訪ねる 64 「水損地」と「流作場」、そして「青蛙」

万代テラスで信濃川の悠々とした流れを眺めたら、やはり頑張ってもう一箇所を訪ねてみようと元気が出ました。

 

万代テラスから東へ300mほどのところに、流作場三社神社があります。

地図ではその隣りにある宮浦中学校とともに楕円形の地形が残っているように見える場所です。

下調べもせずに訪ねることになりましたが、信濃川右岸側河口付近にある神社であれば何か水に関連しているかもしれない、そして少し小高い場所かもしれないと想像していました。

 

*流作場三社神社の歴史*

 

神社へ向かう道は想像とは異なって、ほとんど高低差がないまま境内に入りました。

 

本殿の手前に小さな小屋があって、中に石でできた大きな蛙がいました。

いま流行りのゆるキャラだと思って通り過ぎたのですが、帰りにもう一度立ち寄ってみたところ大事なことが書かれていました。

 

伝説 玄的の青蛙 由緒

当地流作場は延亭三年(一七四六)に

安倍信玄的様が信濃川島嶼を開拓して

住家十五軒にて玄的村を開くに始まる。

元来水損地のため、文化四年・五年(一八〇七・八)

三度の大洪水に襲われ壊滅的状況に至り

廃村を決意した。

然し、其の惨状の中で沢山の青蛙が力強く

生きている姿に村人たちは発奮して自らを

「玄的の青蛙」と呼び水と戦い水と和して

村を再建したと言い伝えられている。

今日の繁栄は先祖達「玄的の青蛙」の不屈の

努力に依ってもたされた賜物である。

当地に起業し本年会社創立満七十周年を迎える

東和造船株式会社代表取締役五十嵐由之氏は

禍を福に変えた開拓者の功績を称え此の伝説を

後世に顕彰して全ての人の幸福を願い 之を建立する。

 平成二十七年十二月

 

この辺りが「信濃川島嶼(とうしょ)」であったこと、そして「水損」という言葉に引き寄せられました。

「水害による田畑などの損失」(goo辞書)を「水損」というのですね。

 

別の説明板に三社神社の歴史が書かれていました。

 1747年(延亭4)、流作場(りゅうさくば)新田の鎮守として開拓者の安倍玄的(げんてき)が創建し、最初は「神明宮」と呼ばれた。その後、数度の川欠けにあって遷座し、現在地に落ち着いた。神主はもと船江神社神主が兼務したが、明治の初めに「三社神社」と改称し、神主も変わった。第二次世界大戦前まで神明様と呼ばれていた。

 現在の社殿は、1971年(昭和46)11月の造営である。

 

「川欠け」という表現も初めてですが、どのような状況だったのでしょうか。

 

 

*流作場と流作場新田*

 

「流作場(りゅうさくば)」について、コトバンクに説明がありました。

河川や湖沼の沿岸部に開かれた新田。<ながれさくば>ともいう。水害を受けやすい不安定な耕地であるため、正式に石高を決定すると耕作者の年貢・諸役負担が大きいことから、検地では厳密な石盛は決めず、反別のみを測定。諸役が免除され、本年貢のみ賦課された。享保改革の末期に、幕府勘定奉行神尾春央(かんおはるひで)・勘定組頭堀江芳極(ほりえただとう)らにより、関東各地の河川沿いに開発された流作場新田が代表的なもので、約1万町歩に達したと言われる。

数行の説明ですが、理解するにはあまりにも稲作の歴史について知識不足で太刀打ちできません。

 

Wikipedia新潟市の流作場の説明がありました。

流作場(りゅうさくば)は、新潟県新潟市の大字。1968年(昭和43年)に住居表示が実施されたことにより消滅した。

信濃川河口右岸に位置する、江戸期から1889年(明治22年)まで存在した流作場新田(りゅうさくばしんでん)の区域。地名の由来は、信濃川の付洲における流作による。

もともとは信濃川にできた中洲で、戦後まであった古信濃川を境界とする区域であった。

 

想像したよりも平地であったのは、中洲だったからでしょうか。

 

 

210年ほど前に三度の大洪水で壊滅的な状況だった村にまた田畑がつくられ、神社も遷移されたようです。

そしてWikipediaに書かれている十七世紀からの「島争い」の歴史が信じられないほど、静かな住宅地でした。

 

 

 

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